小倉さんと飲んでいる時に、映画イミテーション・ゲームの話をした。「コンピュータ科学の父」アラン・チューリングが、戦時中の英国で、敵軍(ドイツ)の暗号通信を看破するための解読機を、大きな期待と重圧の中で開発する物語である。
チューリングは、試行錯誤の末に暗号解読機の開発に成功し、ドイツ軍が自軍(英国)の船団を爆撃すると云う暗号通信の内容を掴むが、チューリングはその情報を軍部に伝えない。敵軍の情報をピンポイントで検知しているような動きを自軍が見せてしまえば、暗号を解析していることがドイツにバレてしまう可能性がある。
チューリングは個別の局面を救うためでなく、より巨視的に、勝利をもたらす戦略のためだけに、敵軍の情報を使うつもりでいる。より多くの人を救うために、必要な観点であり、これはマクロ的、集団全体の視座である。
一方、開発チームのひとりであるピーターは、当該の船団に士官として兄が乗っているため、すぐに軍部に作戦を変更するよう電話をしようとする。これはミクロ的、個人の視座である。
ピーターとチューリング、どちらの視座に即して行動が行われたかは映画を見てほしいが、この葛藤は近現代に於いて、どこにでも頻繁に見られる相克の類似系である。
漫画デスノートでも、酷似したシーンがあった。ヨツバグループの会議で、デスノートによる殺害予告があった際、正義漢の夜神月はこの殺害を阻止しようとする。一方で、現実路線のLは、証拠集めの観点から、放置して殺害を見届けようとする。
月は眼の前の一人の命に、Lは決定的な証拠を掴むことで救われるであろう、多くの人々に、自身の価値観を掛けて行動しようとする。
個と、集団。
近現代の人類は、このテーマから逃れ得ないし、逃れるべきでない。
漫画Hunter×Hunterのキメラアント偏は、この問題を鋭く切り取っている。
人類最強の戦士であるネテロが、蟻の王であるメルエムの力に圧倒されるシーンには、絶望を感じた人も多いだろう。味方サイドの強者が、敵のボスに圧倒的な力で平伏されられる風景は、少年漫画の花形である。
メルエムは言い放つ。「個を重んじる貴様ら人間は、蟻には勝てない」。
蟻は集団と統率を重んじる存在の象徴であり、集団全体を反映させるために、個を犠牲にして蟻の王=メルエムを生み出した。
ここに、個人主義の限界と、集団主義の強靭さが描かれている。
しかし、この物語はそこから「美しさ」という価値基準で、その立場を転回させる。
ネテロはメルエムを倒すため、自らを犠牲にして、爆薬と毒をメルエムに浴びせるという、非人間的な手段に出る。人類の命運を掛けた「集団に準じたる行動」だが、爆薬のスイッチを押すネテロの顔と発言は醜く、悪意に満ちている。
一方のメルエムは、毒された躰に残された余命を、自身に目覚めた「個人的な感情」に準じて、愛するコムギと静かに過ごす。彼は蟻という集団の王ではなく、メルエムという個として死んでいく。その最後の会話と死に際の姿は、慈愛に満ち、美しい。
ネテロは蟻に脆く敗れ、人間はメルエムに醜く勝利した。
強さと美しさの等価交換によって、物語は幕を閉じる。
近現代は、個の自由・個のアイデンティティの時代だ。
メルエムが最後に「個」への執着に芽生えるこのシナリオは、現代に生きる我々の、個に対する強い希求と拘泥を反映している。
一方で、AIで生産性を上げろって?で書いた通り、最近の行き過ぎた個人主義の礼賛には、甚だ疑問がある。
独裁や全体主義という壁にぶつかり、跳ね返ったボールは、少し遠くに転がりすぎたのかも知れない。そのバランスはいつだって難しい。
余談だが、メルエムは、集団の統率者として生まれ、集団利益の代表者であったはずだが、そんな彼の個人化への第一歩は「自身の名前」を知るところから始まった。彼の死に際、コムギの最後の言葉が「おやすみ、メルエム」であったのは、彼が “個”として死んでいったという、何よりの演出である。
ラベルと分割が「個人」を作り出す。
そこまで描いた富樫という漫画家は、やはり凄い。


