大半の日本人と御同様で「半沢直樹」が好きなのだけど、銀行とは真逆の舞台のヤクザものとかも同じように好きだったりする。どちらにも共通するのは「報復」だと思うけど、これは人間ドラマでは鉄板のスパイスだ。
敵対組織にカチ込んだり、宿敵を土下座させる日は、殆どの人の人生には訪れない。でも、「やられたらやり返す」というスタンスには何か一種の憧れのような、離れがたい感情がある。
思ったのだが、「報復」というのは人類のノスタルジーなのではないか。
{名誉, 尊厳, 被害者} の文化
社会学者のキャンベル&マニングが示した「名誉・尊厳・被害者」という文化の3類型がある。
「Bradley Campbell & Jason Manning, The Rise of Victimhood Culture (2018)
これは個人が揉め事に巻き込まれた際にどのような反応を持って対抗するか、という戦略についての分類であるが、その様式が文化圏と時代によって大きく違うという。
「1.名誉の文化」では、自分が侮辱されたら自分で直接「報復」する。西洋の騎士とか、マフィアやヤクザ、気骨あるタイプのヤンキーなどがこの類型だろう。舐められたら黙っていない、自身の名誉を守るために自分でやり返す。決闘、仇討ち、カチコミ、半沢直樹の世界観だ。
「2.尊厳の文化」は、ちょっとした揉め事の種は取り合わないという戦略を取る。僕たちの生きる社会はこの様式が主だろう。会議で露骨にマウンティングされたとしても、笑って流す方がクール。些細な侮辱にいちいち反応する人間のほうが、むしろ器が小さいとされる文化。
「3.被害者の文化」では、第三者に訴えるという方法を取る。パワハラされたら自分で言い負かすのではなく、人事部に言う。気に入らない企業があれば、窓口にクレームを言うのではなくSNSに苦言を書いて他者が共感して炎上させるのを期待する。自分では手を下さず、権威や世間を呼んでくる。最近はこの文化が台頭し始めているというのが、キャンベル/マニングの主張だ。
本位制
これらの反応戦略の違いについて考えてみると、これは「社会的信用」の本位を何に置くかの違いということに思える。これは貨幣を金本位制によってその価値を裏付けるという話に近い(…こういった説明の方向性になってしまうのは、やはり経済学的な思考に自分が馴染んできたからだと思う。良いことだ)。
名誉の文化:暴力本位制
名誉の文化は、正規の裁定機関(警察や裁判所など)がない、もしくはアテに出来ない世界が前提されているということだろう。大和田常務を正規に弾劾するルートがなかったからこそ、半沢直樹は自己報復という手段に出るしかなかった。ヤクザやマフィアやヤンキーも同じだ。人に頼らず、当事者で揉め事を処理するのが常道。
この世界観だと「アイツを舐めたら噛みつかれるぞ!」という評判が、約束を守らせるための唯一の担保になる――いわば暴力本位制である。舐められてしまえば、取引はなんでも成立しなくなる。一方的に破られてしまうからだ。そうなると一切の社会活動で不利になる。名誉は、虚栄ではなく実利のためにあり、報復は単なるブチ切れではなく、自分の取引の執行力を保つための合理的な戦略だ。ヤクザが面子に命を懸けるのは、それが社会活動上の強さと直結するからだろう。
尊厳の文化:制度本位制
でも、冷静に考えれば「当事者同士で報復しあう」というのはコスパが悪い。ヤクザ映画でも大概は報復合戦に発展し、組長は日々枕を高くして眠れない。バガボンド流で言えば“殺し合いの螺旋”にしかならない。
僕らは3つの中でどれが色濃いかで言えば、「尊厳の文化」に生きている。この文化では、人事部や警察や法律が断罪してくれるから、相手に直接手を下して報復するメリットはない。むしろ、直接的な報復行動は封じられる。半沢直樹も、大和田を取締役室で土下座させたがために頭取の命令で子会社にトバされてしまった。近代の法律で「決闘の禁止」が徹底されているのは有名な話だ。
暴力と直接対決とで信用力を築くのは、間尺に合わない世界になった。そうなると「舐める・舐められる」というレッテルのために鎬を削る行為は廃れていく。街中でガラの悪いヤツに絡まれて平謝りするハメになったとしても、社会信用に特に実害はない。むしろガラの悪いヤツは眉を顰められ、社会から疎まれる。
尊厳の文化は、報復も取引も社会的な制度に守られている。ガリヒョロで腕力ゼロで相手から舐められていたとしても、契約書を巻いて請求書を発行すれば約束を履行させる担保は十分だ。万一破られれば、裁判を起こせば良いわけで。
筋力が信用代わりだった世界から、印鑑が担保になった世の中へ。
報復のノスタルジー
ここからはだいぶ想像だが、
僕たちは人類史的には「名誉の文化」に暮らしている時代が長かった。第三機関がまともに機能して個々人をちゃんと守ってくれるようになったのは、ここ200年やそこらの話で、 大半の時期は舐められないように、いつでも何かあれば報復しまっせという顔をして生きてきたんじゃないかと思う。
だから、報復という行為の価値・重みが僕らのDNAに染み付いていて、報復が必要なくなった「尊厳の文化」の世界にあっても報復をかつての尊い行動様式として、ノスタルジーとして未だに欲しているのではないだろうか。
2chとか発言小町などでも、憎き相手にやりかえしたった、の類の体験談は人気があったなと思い出す。もう無くなってしまった、報復カルチャーの追体験。しかも、実際には報復とは無縁の安全地帯から、傍観者として見る。報復ドラマには本能的な快楽が詰まっている。
第3の文化
そんな本能もあって、ここから第3の文化となる「被害者の文化」が生まれてきたのではないか、という気もする。被害者の文化、とは一体何なのか?
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学生時代に恋に恵まれなかった大人が、学園恋愛モノを胸を焦がしながら見るように、僕たちはやられたらやり返す、という原始的な所作にかつてあったはずの世界に対する憧憬を持っているのではないだろうか。


