塩アイス越えて魚介豚骨
デジタル庁広報チームの同僚と、小沢健二の話をした。
以前の投稿を見て、目敏く、来月に小沢健二のライブに行くと書いたのを見ていたらしい。彼女はかなり古いオザケンファンとのことだ。
オザケンの楽曲の魅力は深い。
落差の使い方が上手いのだろう。おませちゃんブラザーズの矢崎も言っていたが、落差のひとつは、日常的な身近なものと、人類や宇宙規模の歌詞を並置して違和感無く同居させるセンスだ。
遠くから届く宇宙の光 街中で続いていく暮らし
(僕らが旅に出る理由)酔っ払ってしまったこんなはずじゃなかった
外出りゃ街に光るのはネオンサイン
喜びを他の誰かと分かり合う それだけがこの世の中を熱くする
(痛快ブギウギ通り)
具体的で身近な描写と、普遍的で壮大な情景の落差が凄い。それを、グルーヴのある曲調で自然に流れるようにマージしてしまう。
もうひとつの落差は、人間の全てを肯定するような楽観・祝祭感の中に、現実的で憂いのある描写を潜ませる、味わいのコントロール。塩アイスのように、全面的な甘さの中に塩気を混ぜることによる、甘さの強調と差分の演出。
ラブリーという曲が好きだ。
全面的に、人生に対する祝福と明るさを感じさせる曲調、歌詞である。溢れ出るリア充の雰囲気。歌詞は凡そ脳天気である。
いつか誰かと完全な恋に落ちる…
こんなすてきなDays…
世界に向かってハローなんて手を振る…
機嫌無敵なDays…
など。根本的に陽キャなんだろうなという印象を受ける。
しかし、個別のフレーズを丹念に拾えば、決して全てが陽気な言葉の、一本槍ではないことが分かる。
「夜が深く長い時を越え」「いつか悲しみで胸がいっぱいでも」「とても寒い日に僕ら手を叩き」陰を感じさせるのはこの3フレーズだけである。歌詞全体に占める割合は、小さい。しかし、この仄かな憂いが、曲全体に確かな人生のリアリティと重さを与えている。
そして、よく見れば
夜が深く長い時を“越え”
悲しみで胸がいっぱい“でも”
とても寒い日に”僕ら手を叩き”
と、この僅かな短いフレーズの中で、オザケンは素早く憂いを克服し、前を向いていることがわかる。純粋な上昇と、時折の急な下降からの素早い上昇、2つを交えて人生をポジティブに語っている。これは、もはや塩アイスを越えて、魚介豚骨ダブルスープの如しである。
ラブリーには色々なバージョンがある。オリジナルも良いが、僕のおすすめは満島ひかりのデュエット版である。二人の旋律のハモりと目線が絡み合い、なんとも妖艶である(椎名林檎と向井秀徳などもそうだが、芸術家同士のデュエットというのは、得も言われぬエロスがある)。
通常版のラブリーは、「Life is comin' back」というポジティブな歌詞と、明るいリフレインのフェードアウトで曲が終わっていく。
しかし、上記のデュエット版のアレンジではそうではない。「いつか悲しみで胸がいっぱいでも…」という、3つしかない憂いフレーズのひとつを敢えて曲のエンドに据え、唐突に曲が終わる。それがまた良い。
ラブリーは、多くのアーティストに愛されカバーされている。
R&Bな鈴木雅之ver.、ソウルを全面に出したハナレグミver.など。特にオススメなのは、大橋トリオのカバーである。物静かさと穏やかな憂いを全面的に纏う曲調の中で、確かな生への祝福を感じさせるアレンジは、小沢健二の静と動の比率を逆転させながらも、曲の本質の成分を見事に保っている。
静と動、憂いと祝福。
オザケンの持つこのバランスは、僕にとってひとつの憧れである。陽キャで人気者でありつつ、わずかに影を匂わせ、実存的な深さを持つなんて、最強ではないだろうか。これは彼の育ちとDNAが為せる技という気がする。あまりにズルい。
彼の特異性は、強い気持ち 強い愛などを聴けばよく分かる。この曲は、バランスのシーソーが振れすぎていて、どう考えてもアタマがおかしい。曲の入りやインサートなどは、どう聴いてもパリピそのものである。
Stand up ダンスしたいのは誰? 彼も彼女もファンキーなビート食らって
Stand up ダンスしたいのは誰? Dancing in the street baby
いまにもパーティが始まりそうで、陽キャすぎて目が眩みそうになる。
しかしながら、終盤の歌詞はこう続く。
長い階段を登り 生きる日々が続く
大きく深い川 君と僕は渡る
涙がこぼれては ずっと頬を伝う
冷たく強い風 君と僕は笑う
何故これらが同居する?イカれている。
そして、ここでも「ラブリー」と同様に、提出した憂い、苦悩を、素早く克服するという手法が使われているのが分かる。
ポップでありつつ本質的、日向に出つつ影は濃く、考え込みつつ笑い飛ばす。気持ちの切り替えはスピーディに。
こんなふうにありたいものだ。

