本の帯を書かせもらったことがある。
『贈与経済2.0』という書籍なのだが、奇妙な経緯で、著者の荒谷大輔先生とは直接の面識はなく、書籍の編集の方経由のはからいで帯文の依頼を頂いたという次第だった。本の原稿を読ませていただくにつれ、本の内容と、著者の荒谷先生に、勝手ながらある種の親近感を覚えるようになった。
全く面識もない中で、帯文を書くというのもおこがましいので、読後に、自分の紹介と、本への率直な感想を兼ねて、下記の文章を御本人に送らせていただいた。
さながら、現代の文通である。
はじめまして、樫田と申します。
この年末に贈与経済2.0の初稿を拝読させていただきました。
面識もない中、私のようなどこの馬の骨ともしれぬものに帯の書評の謹呈を仕り恐縮の至りですが、何者かも不明瞭なままというのも寂しいので、せっかくの機会ですので「贈与経済2.0」を通読する傍らで頭に浮かんだ自己紹介をお送りさせていただければと思います。
私は大学を工学修士で卒業したあと、20代は主に外資系のコンサルティング会社で過ごしました。見えの張ったスーツを着てキレイな資料を作り、企業価値の最大化を訴える、まさに資本主義をわかりやすく体現したような仕事だったのかなとも思います。30代の前半は当時まだ小さなベンチャーだったメルカリに入り、データ分析担当として、会社の目標数値およびそれを追うための仕組みを作ったりしていました。
いまは30代も末になり、何の縁か日本政府(デジタル庁)に誘われてそちらで働いております。こちらでも、メルカリ時代の経験を元に、いかにして国の政策を数値としてトラッキングするか?といった仕組みを検討などしています。
かように、私の経歴としては哲学や政治思想といった学問的なバックボーンは全く無いのですが、資本主義を始めとした社会全体の仕組みには元来よりずっと興味を持っておりまして、ここ数年は浅学ながら関連しそうな書籍などを自分なりに読み漁ってはおりました。実はメルカリに転職した際も、一つの興味として「所有」というキーワードが有りました。僕たちは「所有」という概念にかなり依存しているように感じます。何を持つか、で自分のアイデンティティを表現し、ものを所有するために必死になってお金を稼ぐ(尤もいまの新しい世代はものの所有ではなく、より評価経済やアテンションエコノミーといったものの中を生きているように思えるので、所有よりも創作の方により相対的に価値がシフトしてきているようにも感じますが)。メルカリというサービスは、所有という現代のドグマに対する一種の反逆のようにも感じられ、そういった点に強く興味を持っていたこともメルカリに入社する契機になりました。
おそらく、メルカリの存在を生活の中でGivenなものとして受け入れている人たちの間は「所有」に対する解釈がやや変わってきているように思います。「自分が所有したあとに誰かに売る」ことをはじめから勘案して購入という行為を考えていること。そして、自分が買ったものだからといってそれを捨てるのは道義に反する、という考え持っていることーー 持ち誰かに譲り渡す(といって金銭は発生しますが)ことを自分の責務と考え、自分が使ったものを社会に還元することにこだわりを持っているように見えます。私などはものぐさで、メルカリで売買することでオンライン上でも人と関わったり、商品を発送したり、ということが面倒なので、いらなくなったら捨ててしまおうという気持ちが強い怠惰な人間ではありますが、妻はそこに抵抗を覚えているようで、いつも私がいらなくなったものを代わりにメルカリで捌いて社会に放流してくれています。観察するに、そこには単なる金銭授受のベネフィットではなく、社会に対する責務や価値の還元の喜びのようなものを見出しているように思えるのです。
これは荒谷先生がモースの贈与論を読み解く際に書かれていた「前近代の所有概念」に少し近いのかもしれないと、本を拝見しながら思いました。いま自分の手元にあるからといってそれは自分の100%正当な所有物ではなく、いつかより大きなものの元に返すべきものであるという人間の直感、もしやメルカリは人間に眠るその内なる感性にアプローチできたのではないだろうか?と。(余談ですが、メルカリでの取引する人たちは、特にお得に感じられる取引に際しては「その商品を安く手放す理由」の妥当性にこだわる傾向があります。不当に自分だけが得をすることに対して「モヤモヤ」を感じるのかもしれません。)
それはそれとして、上記のようなサービスの思想的な面とは別に、企業の「駆動構造」の中にも、社会全体の資本主義的な課題の相似系を目にする機会に多く恵まれたと思っています。
例えば企業のKPI設計。私は職種柄こういった企業の目標設計を数値で表現し組織を推進するという役割を担っていましたが、そこで起きる各種の問題は、社会全体が抱えている矛盾に不気味なほど相似したものに感じられます。単純な数値をベースとした目標設計・目標管理は組織の強い推進力を生みますが、同時に長期的・本質的な視点や、微に入り細に入るような「いたわり」の観点が忘れ去られがちです。
例えば売上を目標とする場合、多くのメンバーは売上達成のためにがむしゃらになって働きますが、サービスを正常に回すためには売上向上の施策以外にも多くのファンクション(部署)の連帯が必要です。例えば、顧客のクレームに対応するサポート部隊や、ちょっとした顧客利便性の課題に答えるバグ修正のエンジニア部隊、法に則ったサービス運営を勧告する法務部などなどが挙げられますが、売上目標を中心とした世界の中で、これらの存在は残念ながら軽んじられがちです。
売上を直接担う部署が脚光を浴びる中で、こういった部署の人々は、個々人の持つ善意や顧客への思いやりといったものを糧に日々頑張って仕事をしていました。こういったケア・ジョブ的なものが世界の隅に追いやられがちな構造は、資本主義的な社会フレームワークの問題と大きく重なるところがあり、グレーバーの「ブルシット・ジョブ」やマルサルの「アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か」などを読んだときに、極めて同質な問題であると感じたとともに、こういった数値をベースとした統治手法の構造上の欠陥を痛感したものでした。(まさにその「数値」に基づくガバナンスを強化するのが私の本職であるので)
また、同時に数値で組織を引っ張ることの意義、そして集団がどの程度の「単純な物語」であれば咀嚼し得るのかについて、身をもって体感することもできました。往々にして組織の長というのは、現実を大胆に噛み砕いた単純明快でシンプルすぎるように思われる目標ばかりを掲げているように見えますが、それは受容者側の問題であることを実感しました。大きな組織のメンバーは複雑な定義の指標や、複雑な因果関係を前提としたナラティブなどを理解することができないようです。これは日本でも最高峰のIT人材が集っていると言われたメルカリでもそうだったため、大衆の知識レベルの問題ではないと思っています。このため、組織を強く駆動するためには「非常に単純な物語」を向かう先として設定しなければ、求心力が保てません。「売上を上げれば大丈夫」「Aを解決すれば全て安心だ」といった具合ですが、実際には単純化されたモデルの背後から多くの複雑な現実が不具合となって顔を出してきます。ただ、それを敢えて無視して、単純な物語を盲信させるというやり方以外はさほどうまく機能しないというのが実態なのだと思います。根本的に興味があること以外において、人間の情報認知能力にはかなり制限があるように見える。
このあたりの前提は、ハートランドの設計にも大いに関わるところなのではないかと、勝手ながら思案しておりました。リッチな情報が蓄積されていることと、人がそれを理解したいと思うか・そして理解できるか、の間には常に広く深い溝があります。少なくとも現代に生きる人の脳の様式は例えば「ある人の過去の行動履歴」という潤沢な情報をフルで処理するコストは忌避され、「単純化した一つの数値で示してくれよ。例えばフォロワー数とかさ」という反応が大多数になっても不思議ではないように思います。この反応が、人間本来の認知力によるものなのか、近代社会の思考様式に依るものなのかは私には浅慮にしてわかりませんが、非常に気になるところです。
メルカリという会社では非常に面白い経験ができました。
強烈に利用者数と売上を伸ばしており、そのために給料や社内の福利厚生も驚くくらいの手厚さでした。数値目標と個人への待遇の還元でメンバーをドライブしながらも、ミッション・ビジョンといったソフトな共同幻想(企業用語で言えば社内カルチャー)が社内に浸透し、指標・個人の利益・ナラティブの全方位で組織構成員全体が強く引っ張られていました。当時はまだ構成員数がダンバー数を大きく超えていなかったこともあるかもしれません。
それは楽園のようでした。それから数年後、売上成長が鈍化し社員数が増えると、待遇は悪化し、カルチャーは薄れ資金は金庫の奥にしまわれ、各部門・各個人が自分の権利だけを叫ぶようになり、その対抗手段として数値を使ったマネジメントがより強化されるようになりました。この頃には私は退職していましたが、残った社員から訊くには、かなりの停滞感・閉塞感だったようです。
それはまるでいまの日本そのもののようではないでしょうか。
やや自分語りにもなりますが、私自身は、資本主義というこの世界を覆うパラダイムにずっと不思議な愛着を抱いていました。どこまでが先天的なものかはわかりませんが、私という個体は、かなり幼少から資本主義社会に適した人間だったように思います。
幼少から人付き合いが嫌いで、親戚づきあいどころか親の愛情さえも疎ましく感じ、ただ人の顔色を伺うのは得意で、合理的に相手の欲求を読み取り、表面上では人とうまくやるのが得意でした。人と深く関わらずに、自分だけの能力に依って、匿名化された世界で自由に生きていきたいと、子供の頃からそう思っていました。地元という概念そのものが苦手で、知り合いが周囲にいることが息苦しく、東京に出てきたときにはその人間関係の希薄さに安堵しました。贈り物をしたりされたりするのが煩わしく、祭儀には呼ばれても行かず、常に物事の損得勘定を合理的に考え、価値は等価交換されるべき。(ちなみに母親は大変に愛情深い人で、家庭環境が合理や交換といった思考を強いるような場所では全く無く、なぜ物心ついたときにこのような性格になっていたかは私にもわかりませんが、HSPという生来のパーソナリティ がかなり深く関係しているように思います)
お金を稼ぎさえすれば金銭を介在してアノニマスでいられるこの資本主義社会が、僕を生かしてくれているとされ思うこともあります。幸い私は資本主義でのルールを理解して狡猾に立ち振る舞うのが苦手ではなかったので、客観的に見ても資本主義の秤で言えば社会的には一定成功したように思います。逆に、コミュニティでの互助が生きる前提となった時代に生まれていたら、僕はきっと気が狂っていたでしょう。おそらくコミュニティ型社会にはあまり馴染まない人間というのが一定確率で存在するのではないかと考えます。
そのようなわけで、私個人はこの現代の資本主義社会に生まれついたことを一定幸運に感じているという側面も強く、近年流行りのファッションのようなノリで論じられる「資本主義オワコン」「コミュニティ回帰」的な思想にはやや判然としない思いもあるのですが、そんな私でも、自分の周囲との人間関係の希薄さには深い寂しさを覚えることが少なく有りません。やはり他者との関わりなしには人は生きていけないということを当たり前ながら今更に再認識しているのですが、残念ながら社会資本は人生の中での蓄積なので、なかなかに今更如何ともし難いところはあるのですが。また、それとは別に、個人を離れて俯瞰で見ても今の資本主義社会(およびそこにおんぶされる形で動いているように見える民主主義)には問題があるということには全面的に賛同しています。
最近は40歳も迫ったいい歳になり、第一子も生まれ、政府で働くようになり、少しづつ自分の考え方もだいぶ変わってきたように思います。他人に頼らず匿名化された世界で孤独に生きるというのは、いわゆる「楽」ではありますが、「幸せ」では有りません。それは人間のDNAに反しているのでしょう。また、子どもにそういった合理一辺倒の人生を歩んでほしいともやはり思えません。資本主義のもたらす自由さを活かしつつ、この行き過ぎた個人主義・短期的な合理主義(=ひいては共同利益の軽視)を是正したよりよい社会のあり方はあるのだろうか、とずっと考えていました。
その意味で、荒谷先生のハートランド経済というアプローチには感銘を受けました。既存の資本主義が与えたメリットを損なうことなく、失われた人々の結びつきを取り戻す ーー このプロジェクトは私にとっては決して他人事に思えませんし、僕と同じように多くの人が人知れず抱えている悩みの処方箋になる可能性があるのではないかと期待しています。もし何か私にも役立てることがあれば、と願っています。(あまり対した能力もないのですが、SNSでの発信力がそれなりにあるのと、文章を書くのが好きなこと・議論するのが好きなことくらいが取り柄です。あと一応、数値で何かを考えるのも、ですね。)
乱文にて失礼いたしました。 令和5年の大晦日に
樫田
久しぶりに読み返し、自身の資本主義に対する愛憎の根深さを思い起こしていた。
それは同様に、データ分析(=情報の縮約)という方法論、そしてその本質に対する、自分なりの深い洞察と、迷いと懐疑、へと繋がっている。
資本主義への感謝と、資本主義への懸念、日々、その狭間に暮らしている。
程度の差はあれど、そういった人は多いのではないだろうか。
注:荒谷先生には許可をいただいて公開しています。



自分もtoB向けの組織で経営管理などもしてきており同じく資本主義の愛憎を持つ身であるので、組織全体では「分かりやすさ」が大切になることへの理解します。ただ同時に、組織を運営する幹部でさえも複雑な因果や複数の指標への理解を怠ることにすごく違和感を覚えます。
根本的には、toB向けの管理職だと、分かりやすさでマネジメントを受けてきているゆえに、その手法に半ば盲目的になってしまってしまうなぁと。
何が言いたいかで言うと、変わろうと思わない人に数値をもって説明しても、そもそも門前払いで辛いということでした😂