移動の不自由
40代になり「移動の不自由」の重要さについて考えている。世の中は慌ただしく、情報は多く、思考を乱されること、何かに瞬間的に目移りさせられる事が多い。要は物事に集中することが難しいのだ。
3歳になるムスメがいる。ムスメの思考の移り変わりは目まぐるしい。LEGOを取り出して「工事現場を作るよー」と言って遊びだしたかと思えば、いつの間にか作っているのが遊園地になり、気づけばぬいぐるみのためにご飯を作るタスクに勤しんでいる。一つの物事に執着せず、ふと思い浮かんだ別の世界にシームレスに移動しているのだ。
こどもはそれで良いが、大人の場合は事情が違う。何かをちゃんと進めるためには何かに集中する必要があるのだ。今朝ふとカフェでボーっとしていたら、建築家になればよかった、と突然思った。いまから建築デザインの勉強をしても面白いんじゃないか?などと発想が飛躍していく。しかし自分は経済学を真剣に学ぶと決めていた。そして、そのために経済学の大学院に入学することを既に決めている。ここで建築デザインの夢想は途切れた。
これは良いことだろうか、それとも悪いことだろうか?
私は、いまの自分にとって、これはこの上なく良いことだと思った。浅い考えに経てば、これは不自由なのかも知れない。しかし、僕は元来、気が散りやすい。強制的に何かに自分をフォーカスさせる仕組みが必要なのだ。大学院の学生証はその役割を見事に果たしている(物理的な意味での学生証なるものをまだ手にしてはいないが)。
それなりのキャリアを積んでこの歳になれば、実績・人脈・経済的余裕などをフル活用すれば、若い頃よりは選択肢はある意味では無限に見える。だからこそ、自分を何かの檻で囲っておく必要がある。眼の前の物事に瞬間的に目移りして、薄く広い人生を生きてしまうことを、意図的に避けるために。これは移動の「不」自由だ。
移動の自由は憲法にも規定されている、人権の一部としての重要な概念だという。Covid19の発生時には、国ごとにロックダウンに対する市民の反発の強さが違ったと訊くが、それは移動の自由をどのように捉えているかに依存する。移動とは、自身野の人生のコントロールに関わる権利だ。より魅力的な場所に移動する、嫌な場所から逃避する。パワハラの上司がいる会社から転職するのも、恋人を追って東京に出るのも移動の自由だ。そこには人生の可能性と、前向きな逃避がある。
一方で、僕のように「逃げる」ことが得意な人間にとっては移動の不自由は同様に重要だ。難しい思考に取り組んでいる時に、Slackの通知が鳴ればこれ幸いとばかりに思考から逃げ出す。そして今日も本質的に大事なことが、また一日、先送りにされる。
移動の自由は、時に依っては、本質的で長期的なものから、短期的で目先の物事への反射的な移動=瞬間的逃避を生み出す。
付き合う、と、結婚、の違いもここにあるんじゃなかろうか。
最近、結婚は書面的なものでしかないので、わざわざ制度として結婚という形態を取る意味はないよね、という主張を訊くことは多い。それは移動の自由を留保したいという意思表示にも聞こえる。しかし、移動の自由があれば、人は短期的な損得や感情で物事から逃げ出さないとも限らない。それを越えて、長期・本質に目を向けるためには移動の不自由が必要だと思うが、それを世間は婚姻と呼ぶことにしている、そういうことじゃないだろうか、と私は思っている。
(公平性のために書いておくと、私は30歳前後に一度、離婚を経験している)。
なにはともあれ、
3歳のすべての可能性に開かれたムスメには存分に移動の自由を行使してほしい。
私のような、40歳を迎えた、意思が弱く逃げ出しがちな人間には移動の不自由が必要だと、心から思っている。

