何が嫌いかより何が好きかで自分を語れ、という言葉がある。
インターネット上ではルフィがこの台詞を叫ぶ画像をたまに見かけるが、本来は別の漫画のキャラクターの台詞らしい。
誰が言っているかは別として、なんとなしに名台詞の雰囲気が漂うが故にネットでも頻繁に引用されているのだと思うが、これは本当に真に名言だろうか?
友達のデザイナーのyuiが引っ越しを検討していた時に、相談に乗ったことがある。彼女が挙げた住みたい街の上位要件は、派手な看板や広告が少ない街であることだった。広告を貼らない、広告を拒む雰囲気の街が好きなのだ。
これには同意する。似たような話だが、私は、チェーン店が少ない街が好きだ。
スティーブ・ジョブズは、「何をしてきたかと同じくらい、何をしてこなかったかを誇りたい」と語っていた。無駄なポートは付けない、不要な会議はしない、不便であっても好きでない家具は買わない、日々着る服の選択肢を1種類にする。
デザイナーはよく上下真っ黒な服装をしているが、彼ら彼女らは黒が好きなわけではなく、「装飾する」「ムダを情報を纏う」ということを嫌っているのだと思う。
ココ・シャネルは不自由な女性性を、パタゴニアは消費社会を、無印良品はブランドという概念を、Kraftwerkは人間の生身性を、ジョブズは不格好なタイポグラフィを、パンク・バンドは権力とギターソロを嫌っている。
カッコいいものは、意外と「嫌い」で出来ている。
我々は、何が嫌いか、と、何が好きか、のどちらで自分を語るべきだろうか。
それはおそらく、フェーズによって異なる。
嫌い=しない(Don’t)は、引き算の美学とも言えるだろう。一方で、好き=する(Do)は足し算の表現である。
引き算の美学は、成熟の証、でもあるように思う。
若者は好きなものの足し算で、自身を表現する。
この音楽が好き、このブランドが好き、この食べ物が好き、あのインフルエンサーのライフスタイルが好き….手当たり次第に集めた「好き」をパッチワークして、まだ何者でもない自分の白地のキャンパスを埋めていく。知っている色は原色ばかりで、どの色を載せても鮮やかに見える。
いっぽう、人は成熟していくと、様々な選択肢を手にする。
手元にはこれまでに手に入れた、色々なカードが有る。キャンパスは汚れ、絵の具は、青と緑の近くに、セージグリーン、ターコイズ、ラピス、セルリアン、オリーブ、瑠璃色、群青など、似たようなものが沢山並ぶ(僕が“The Devil wears Prada”を見たのがバレてしまうような色の選び方だが)。
成長し、選択肢を多く得れば、足し算はお腹いっぱい、色も濁るだけだ。
引き算の時間だ。
適切に引き算ができる大人はカッコいい、と思う。
引き算には、経験と審美眼と自身への自信、が必要である。
いい歳をして、チグハグな足し算で生きている大人は、その幼さが透けて見える。ブランドの服とバッグと靴とキャップを無遠慮に足し算し、ネックレスと時計、その装具を重ねづけし、流行りのものにすぐ飛びつく。アレッサンドロ・ミケーレはそういう人たちをバカにしたくて、皮肉交じりにGUCCIの製品をロゴだらけの大衆迎合ブランドに変えてしまったのではないか。
大人は、何が嫌いかで自分を語るのも悪くないと思う。
しかし、少年漫画の台詞であれば「何が嫌いかより何が好きかで自分を語れ」も悪くはないだろう。最近は、少年漫画を熱心に読んでいるのも、大人ばかりかも知れないが。


