社会科で三権分立って習いましたねえ。覚えてますか?立法・行政・司法でしたか。まさか自分が行政で働くことは想定してませんでしたが。
今日はさほど書く意欲がない。
毎日書くと決めているものの、やる気が出ない日もある。にんげんだから。
とはいえ、そんな日もありつつ、誰に頼まれたでもなく、毎日書いている自分は偉いと思う。誰も褒めてはくれないものだから、そうやって自分の機嫌を取るしかない。まあフラットに見ても、他人が同じことをやっていたら、よくやるねぇ、と素で感じるだろう。だから、自己弁護でもなく、ホントに褒めてやっても良いだろう。
そうして、毎日書いてるねえ、偉いねえ、などとひとりごちている。しかしふと考えると、普通の社会人は誰もが日々欠かさず、毎日8時間も仕事をしている。その事実のほうがよっぽど凄くないか。
変な比較だが、このニュースレターについては「毎日書く」ことをそれなりの負荷として、或いは美点として捉えている。でもみんな毎日欠かさず働いているけど、という事実と並べてしまうと、ごく普通のことのようにも思えてしまう。
そんな思考はいかん、自分を褒めねば。
いやあれでしょ、
「やることが与えられている」というのと、「別にやる必要もなく、何をやるかも決められていないことをやる」のは苦しみの種類が全く違うわけで。
このニュースレターを書くことは自由だ――何を書いてもいい。そしてこの自由度こそが、僕を苦しめる。まず何を書くかを決めないといけない。まずは。
書きたいことはある。
あるはずなのだが、これは書きたいぞ!と思いついたものに限って「ちゃんと書くと重いテーマだなあ」と思い、今日は書きたくないな、となる。自由だから逃げるのも簡単だ。でも、「何も書かない」という逃げ道は何故か封鎖してしまっている。
自由の利点は逃げられることで、自由の費用は決めること、だと考えるのだが1、じゃあ今の自分はどうか。逃げる自由は自分で塞いだ。一方で、何を書くかという決定のコストは日々全開で降ってくる。つまり、自由の利点だけを捨てて、コストだけを手元に残している。自由とはこれいかに?
あーたまにはもっと不自由になりたいなあ。
そう思って、質問箱などで書くネタを蒐集しようと思ったのかもしれない。
でも気づいたのは、最終的に書いた内容にOK/NGを出すのが自分だから、書くことが決まっただけでは楽にならない。(あ、でも質問箱はめっちゃ投稿お待ちしてます)
組織での仕事は、大概が、1やるべきことの創出/2やる人/3やったことの評価 の3つが分離している。それが故に不自由であるとも言えるが、
とはいっても、逆に一人で全てをこなすのも苦しい。面白いネタを考えついても、書く作業が重いと後ろ向きになる。だってやるのは自分だもの。ある程度書き始めて筆が乗ってきても、それを同時に「評価」する自分がいる。するとそれはそれでまた気が重くなる。創出・実行・評価の3部門が脳内に同居し、生のアイディアや原稿を手に、喧々諤々の会議を始める。
3部門の熟議が白熱し、僕の脳は熱くなる。あぁやめてくれ。
仕事は、この3部門が分離されているからこそ、不自由だがその分楽だ。無邪気に大きな仕事やラフなアイディアを作り出して他人に発注できる。自分とは別の人が評価してくれるから、手を動かす人は何も気にせずに実行にだけ集中できる。国だって、決める・行う・裁くを分離しているじゃないか。三権分立、近代国家の基本。賢いシステム。
こういうコトは積極的に分業すべきなのだ。分業とは経済学的には、一人ひとりが得意なことに集中することで生産性が高まる、という効果が語られがちだが、3部門を分割することで敢えて責任感を放逐し、考えすぎて手が止まる、そのアイドリング・コストを下げているという効能もある。
なのに、毎日文章を書くという行為は、常に3部門一役である。三権未分立。近現代のシステムに反している。全く何なんだこれは。
そして、書く意欲がないと言いながら、気づけばグダグダそんなことを書いている。これはこれで悪くない気もしてきた。脳内の査定部門、今日は少し甘いようだ。
三権未分立では全ては自分次第。限り無く不自由で、それでいて自由。
…あ、最後に綺麗にまとめようとしてる。どうやら脳内には3部門だけでなく、広報部門もいたようだ。
前者は消極的自由で後者は積極的自由の話をしているという整理でも良さそう。



「最後に綺麗にまとめる」のも見事ですが、「思索があちこちにとんだまま収集つかず」という回がたまにあってもよいかもしれません。人間ぽさを感じますし。