最近、仕事に関係する情報を、Notionなど、生成AIがあとから読める場所にひたすら溜めている。
過去の議事録、ユーザーの発言、競合の情報、ふと思いついた仮説、まだ何なのか自分でもよくわかっていない違和感。とりあえず置いておく。ある程度溜まったらAIに整理させて、抜けている情報を探し、また追加する。
置いたからといって、すぐに何かが生まれるわけではない。いわば前処理みたいなものなのだけど、油断すると、ここにも人間の時間をけっこう使う。
で、途中で思う。
自分は、なんでこんな回りくどいことをしているんだろう。
さっさと考えて、さっさと決めて、企画書や仕様書を書けばいいのではないか。ほかにもやることはある。Slackも来ている。今日中に返したいものもある。情報を溜めて、整理し続けている場合ではない。
ただ、過去の経験からすると、この回りくどい時間を省くと、あまりいいことがない。
最初に思いついた、そこそこ正しそうな答えを、そのまま採用しても、まあ開発自体は進む。企画もまとまる。説明もできる。世の中に出ることもある。
でも、ある程度進んでから気づく。あ、この観点、完全に抜けてた、と。
企画のクオリティだけの問題ならまだしも、いや、それもよくないのだけど、過去には、それまで積み上げてきたものを木っ端微塵にするような、仕様上の「爆弾」を踏んだこともある。
思い出したくもないが、何度かある。
なので、面倒だなと思いながらも、今日も情報を溜めている。
こういう仕事の進め方を説明するとき、自分はよく「発散と収束」という言葉を使う。
最初に情報や可能性を広げる(発散)。すぐには決めない。そのあと、広がったものを比較して、絞って、ひとつの方向へ進む(収束)。
発散と収束とか、現実の仕事を単純化しすぎではないか、と言われることもある。それは、まあ、そう。
実際の仕事は、きれいな型どおりには進まない。情報を集めながらアイデアを思いつくし、いったん決めたあとに新しい事実が出て、また前に戻ることもある。時間がなければ、発散らしい発散をせず、経験と勘でえいやと決めることもある。
現実は普通にぐちゃぐちゃしている。なので、発散と収束を仕事の正確な工程図だと思うと、たぶんあまり役に立たない。
でも、自分の頭がいまどのモードにいるのかを確認するための言葉だと思うと、かなり便利である。
発散している最中に、「いや、それは現実的じゃない」「予算がない」「前にも失敗した」と評価を始めると、だいたい見慣れた案しか残らない。
新しい可能性を出そうとしているのに、出てきた端から潰しているので、そりゃ広がらない。
逆に、もう決めて進まなければいけない段階で、「そういえば別案もある」「もう少し調べたい」「こっちの可能性も捨てがたい」と材料を増やし続けると、永遠に何も決まらない。
すぐに決めないことと、ずっと迷うことは違う。その切り替えを自覚するために、発散と収束という雑な言葉がけっこう役に立つ。
発散というと、みんなでホワイトボードの前に集まって、付箋を百枚貼り、楽しそうにアイデアを出す場面を想像しがちである。ブレインストーミングとか。もちろん、それも発散ではある。
でも、自分の経験では、発散の大半はもっと地味だ。そして、意外とロジックがいる。
ユーザーインタビューの発言を細かく切り分ける。資料から事実だけを抜き出す。似ているものを並べる。違うものも並べる。すぐに意味をつけず、関係がなさそうな情報を、しばらく同じ場所に置いてみる。
アイデアを出すというより、アイデアが出てくるための土台を作る。
昔、UXデザインを学び始めたころ、整理は単なる事務作業ではない、と師匠的な人に教えてもらった。
インタビューの内容を付箋に分け、グルーピングし、構造を作る。ただきれいに分類するのではない。事実と事実のあいだに、まだ見えていなかった関係を見つける。その整理自体が、クリエイティブな仕事なのだと。当時は、わかったような、わからないような感じだった。
でも何度かリサーチをやっていると、たしかに、地道に情報を並べたあとにしか見つからないものがあるとわかった。
「この発言と、この行動、実は同じことを言っているのではないか」
そうやって、あとから線がつながる瞬間がある。
いま、AIが読める場所にコンテキストを溜めているのも、たぶんそのころの感覚が残っているからなのだと思う。
生成AIは、この発散をめちゃくちゃ簡単にした。
仮説を出す。別の観点を考える。競合を調べる。反対意見やリスクを並べる。雑なプロトタイプまで作る。以前なら一日かかった散らかし作業を、かなり短い時間でやってくれる。
PMの仕事には、まだ答えが明確に決まっていないフェーズがある。
ユーザーが本当に困っていることもわからない。施策の候補はいくつもある。そもそも、いま置いている問題設定自体が間違っているかもしれない。
そういう状態で、仮説を広げたり、別の可能性を探したり、雑なタタキを作ったりする。そこを無限に手伝ってくれるのだから、生成AIがPMの仕事に役に立たないわけがない。自分は、ほぼそう思っていた。
結構前に、PjMをメインにしているメンバーと話していて、「生成AIって、コーディングには使えるけど、ビジネスにはそこまで役に立たないですよね」と言われた。
一瞬、「いやいや」と言った。ただ、話を聞いていると、そこでいうビジネスとは、主にプロジェクトを確実に進めるPjM的な仕事を指していた。
プロジェクトを予定どおり進める。抜け漏れを防ぐ。関係者に確認する。決められた品質のものを、決められた日までに出す。
そういう仕事では、現時点の生成AIは普通に間違えるし、勝手なことをする。出力を確認して直すくらいなら、自分でやったほうが速い場面も多い。
あとから考えて、たしかにそうかもしれないと思った。
自分は、PMや企画、ビジネスの仕事のなかでも、かなり発散を重視していたのだと思う。というか、発散の部分に価値があるという前提を、ほぼ疑っていなかった。
ただ、仕事の性質によっては、取りうる選択肢が最初からかなり限られていることもある。顧客の要望も制約条件も明確で、あとは確実に形にしていくしかない。
そこで必要なのは、可能性を増やすことではなく、不確実性を減らすことだ。
発散を重視する人には、AIの曖昧さが可能性に見える。収束を重視する人には、同じ曖昧さがリスクに見える。
「生成AIは使える」「いや、そんなに使えない」という論争の一部は、AIの性能について話しているようで、実は仕事のどこに価値を置いているかが違うだけなのかもしれない。
AIの設計も、発散と収束で考えるとわかりやすい。
「こういうことをやりたいんだけど」とだけ伝えて、勝手に調べ、考え、こちらが思いもしなかったものを持ってきてもらう。自律型のエージェントが一番輝くのは、たぶんそういう発散の場面である。
一方で、人間が工程を細かく定義し、同じ手順で一定品質のものを出させたいなら、自由に動くエージェントより、手順を固めたワークフローのほうが強い。
自由に考えてほしいのか。決められたことを確実に実行してほしいのか。ここを分けないと、AI活用の議論はずっと噛み合わない。
ただ、ここまで書いておいて、AIと発散は相性がいい、とだけ言い切るのも少し違う。
前に、駄菓子屋PMながしーさんが主宰する親子生成AIハッカソンで、メモ帳を見ながら考え込んでいる子(ながしーさんの息子さん)がいた。
「これを使ってくれる人って、何に困っているんだろう」
そう言いながら、うんうん考えていた。いいな、と思った。それで自分は、余計なことを言った。
「生成AIと壁打ちすると、アイデアが広がるかもしれないよ」
せっかくの機会なので、こういう使い方も知ってほしいと思ったのだ。少し使ってもらうと、AIはいろいろな案を出した。その子も「なるほど」と言っていた。
でも、そのあと、すっとAIを閉じた。そしてまたメモ帳に戻って、うんうん考え始めた。ああ、余計なことを言ったな、と思った。うんうん考えている時間自体が、楽しかったのだと思う。
AIを使えば、可能性は簡単に増える。でも、可能性が増えることと、よく考えることは同じではない。
わからないまま粘る時間。自分の中から何かが出てくるのを待つ時間。すぐに答えを受け取らず、同じ問いの周りをうろうろする時間。
あれ、もしかして自分、発散を手伝うどころか邪魔したのでは、と思った。
自分は発散が好きなのではなく、AIと発散している自分が楽しいだけではないか。便利な壁打ち相手を使って、考えている気分になっているだけではないか。
生成AIが発散を簡単にしたことで起きる問題は、これだけではない。
AIは、発散を始めることだけでなく、いつまでも発散を続けることも簡単にした。
AIと壁打ちをすれば、企画案も出る。ターゲットも出る。ロードマップも、名前も、コピーも出る。頼んでいないのに、リスクとネクストアクションまで出る。以前なら雑談で出て、そのまま五分後には消えていたような思いつきが、数分で立派な企画書になる。これは、実際のところ、かなり危ない。
冷静に考えると、別にやる必要のない施策でも、いったん形になると捨てにくくなる。いわゆるIKEA効果みたいなものもあるのだろう。せっかくここまで作ったし、少し試してみてもいいのでは、となる。会議が生まれる。タスクが生まれる。プロジェクトが始まる。
AIは発散を助けるが、ブルシットジョブの量産も助ける。思いつきのコストは激しく下がった。でも、それを捨てる能力までは自動化されていない。
昔はUXやユーザーリサーチやアジャイルが好きだった。いまは生成AIが好きである。使っている道具は変わったけれど、やりたいことはあまり変わっていない。
いきなり結論を出さず、一度ちゃんと散らかす。すでに知っている答えを、最速で出して終わりにしない。まだ見えていないものがあるかもしれないので、少しだけ粘る。
たぶん、ずっとそういうことを言いたかったのだと思う。だから生成AIが出てきて、はしゃいでいた。その発散フェーズと相性のいい技術だと直感したからだ。そしてそれは実際そうだった。
ただ、生成AIは発散のためのかなり強力な道具であるぶん、気を抜くと、こちらが発散しているのか、AIに発散させられているのかがわからなくなる。
ほかの可能性があることはわかっている。でも、今回はこれで進む。そういう人間の意思決定も、今まで以上に大事。
この記事も、生成AIと相談しながら発散している。おかげで、いろんな論点を何度も足せた。
生成AIを発散に使う価値を書きたかった。でも、発散の危険性も書きたくなった。このブレは、生成AIと発散したおかげでもあるし、たぶん、せいでもある。
ぜんぶ入れ始めると、この記事自体が、発散を終えられない人間の見本になる。つーか、もうなっている気配がある。AIの発散を薦めたいのか、そうじゃないのか、明らかに後半の構成がぐだぐだだ。
なので、ここで終わる。終わらせる。知らん。
この記事くらいは、人間の意志で打ち切ることにしようかとおもう。これがAIに振り回されない人間らしさということで。
…じゅうぶん振り回されてる気もするが気にしない。





AIをスッと閉じてまた考え始める場面が想像するだけでほほえましかったです。
意識的でも無意識的でも自分の楽しいところをしっかり選べる人でありたい…。
結局、意思決定や捨てる、打ち切るといった能力(権限)は、人間のもとに残されるのでしょう。でも、自分が選んだのか、AIに選ばされたのかは、区別のしようがないのかもしれません。