瓶ビールのように生きれたら
デジタル庁のミッションに「誰一人取り残されない、人に優しいデジタル化を。」というのがある。僕は、当初からこれにしっくり来ていない。
誰一人取り残されない、は政府が好みそうな表現だ。
政府は、何かを切り捨てる、というのが苦手である。それは、公共に責任を持つ組織として、間違っていないとは思う。ただ、その理念が、どういった形で現実に反映されるか、が問題だ。
経済学者のセドラチェクが「2杯のビール」という例え話をしている。
ここに2杯のビールがある。客は3人いる。どう分けるべきだろう。難しい問題だ。誰がビールを飲む権利があるのか。貧富で決めるべきか、酒好きに譲るべきか。くじかもしれない。のどが渇いている人、もしくはビールを初めて飲む人が優先権を持つかも知れない。誰かひとりが2杯とも飲んでしまって、残り二人が黙ってみている方が、寧ろ公平かも知れない。
しかし、もっと簡単な方法がある。3杯目のビールを用意し、3人それぞれが一杯ずつ飲めばいい。万事解決だ。
そんな馬鹿な。それでいいなら苦労しない、と言いたくなる。
しかし、セドラチェクが言いたいのは、このバカげた解決策が現代の世界そのものだということだ。つまり「どう配分すればいいか」という、痛みを伴う倫理・哲学の問題を「経済成長してパイを大きくすれば、そういったことは考えずに済む」というレトリックで、逃げ続けているということだ。
実際、これは魅力的な回避策である。僕自身にも、身に覚えがある。家電を買う時に、妻は機能を、僕は美観を重視しているとする。僕が取る解決策は大抵、「最大限のカネを払い、両方を備えた上位機種を買う」になる。お金は頑張って稼げば良い。財布を開くことで、当座の衝突は回避できる。これが人間であり、これが社会だ。
教育・安全保障・医療・子育て・経済成長、限られた資源で、何を捨て、何を救うべきか。答えは簡単で、全てを捨てない。財政を出動する。国の借金は、成長すれば返せる。
DXは、本来取捨選択が重要な問題だ。デジタルのチャネルを要するなら、これまでのチャネルを捨てる必要がある。オンラインの手続きに投資するなら、これまでと同様に窓口を維持するのは、当面、ダブルコストを払うことを意味する。そのコストを払えないなら、これまでのオフライン・チャネルに親しんだ関係者に痛みを強いることになる。
過去の資産を、デジタルで活用できるように整備する必要がある。例えば、Machine Readableでないデータとか。全ては無理なので、そこには優先度と、何かを切り捨てる覚悟が必要だ。
これは、やはり難しい問題だ。困った意思決定者は時に、絵に描いたビールを持ってきかねない。「AIがあればすべて解决する」など、という。最近は、出遅れたDXをすっ飛ばして、AI化(AX)を進めれば良いという論説もあるらしい。
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3杯目のビールが確かに用意できるなら、それも良い。
ただ、それが幻想だったら?
もちろん、経済成長と技術革新の重要性は否定されるものではない。ただ、我々は、3杯目のビールに頼りすぎるあまり、2杯のビールをどう分かちあうことが出来るか、ということを思考する能力を失ってしまっているのではないだろうか。
ビールを飲むとは、権利とは、公平とは、豊かさとは何か。経済学とは、本来、こういった倫理と哲学が絡む複雑な問題を考える学問だった、とセドラチェクは言う。僕が興味を持っているのも、経済成長論や金利の話ではなく、この意味での「経済学」である….これについては、また改めて書きたい。
むしろ、2杯か3杯か、などではなく、瓶ビールのことを考えるべきであろうか。海外の小さい瓶ビールではなく、日本の中瓶のことだ。瓶ビールを数人で分け合って飲むのは、理屈でなく、何か楽しい(海外には無い文化らしい)。
3杯目のビールを待つのではなく、
瓶ビールを注ぎ合うように、僕らは生きていけたらいいのに。

