先日、誰かとの雑談で「まぁ結局、世の中そんなもんですよね」と誰かが言って、自分も「ですよねー」とか適当に返したのだけど、帰り道になってから、なんとなくその言葉が引っかかっていた。
そんなもん、ってどんなもんなんだっけ。
人間は放っておけば自分の利益しか考えないし、隙があれば他人を出し抜くし、きれいごとを言っている人も結局は自分のためにやっている、みたいな感じの話だったと思う。
そしてこの言葉は、口にすると妙に「大人」っぽく聞こえる。世間をわかっているじがする。酸いも甘いも噛み分けた人の発言っぽい。
逆に、「人間って基本いいやつですよ」と言うと、途端に世間知らずのポエムに聞こえる。
なんなら少し心配される。大丈夫?壺とか買わされてない?みたいな顔をされる。
このかんじ、なんなんだろうと思う。なぜ人間を悪く見る感じのほうが、現実的に見えるんだろう。
本書では、ある過激な考えを述べよう。
それは、「ほとんどの人は本質的にかなり善良だ」というものだ。
-- ルトガー・ブレグマン 『Humankind 希望の歴史』
こちらの本が好きなんですけど、この本が面白いのは、人類の性根は悪である、弱肉強食である的な前提をけっこう真正面からひっくり返してくるところにある。
「人間の本質は善である」という、正直、言葉だけ聞くとかなりうさんくさい主張を、理想論ではなく、実験と史実を積み上げながら押し通してくる。
たとえば『蠅の王』という小説がある。無人島に漂着した少年たちはだんだん秩序を失い、暴力へ向かっていく。
でも実際に小説と同じようなシチュエーションで、トンガで無人島に少年たちが漂着するという事故が発生したのだけれど。しかし、小説と異なり、役割分担をし、火を絶やさず、喧嘩したら距離を置いてクールダウンする仕組みまで作って、1年以上生き延びていた。
人間は追い詰められると野蛮になる、かと思いきや、むしろ追い詰められた時こそ協力するという事実。
もちろん、それだけなら「いい話」で終わってしまうのだけど、この本は、そこからさらに、ほかにも、これでもかと、性悪説の根拠として何度も引用されてきた、有名ないわゆる監獄実験や電気ショック実験が、都市伝説であり、実際はむしろ性善説を信じるに足るものだ、という論を展開していく。
人間は放っておくと残酷になる、という「常識」の実証的な土台が、思ったよりずっと怪しいことが見えてくる。
「人間は利己的である」と言うのは、たしかに強そうに見える。斜に構えているし、傷つかなそうだし、騙されなさそうだ。
でも、大事なのはファクトかどうかなのだ。
結局実のところ、「現実主義」なふりをして、逆に、人間に期待して裏切られるのが嫌だから、最初から低く見積もっているという、ある種の「現実逃避」なんじゃないか。
冷笑って、わりと安全な場所からできる。
人間なんてそんなものだ、と言っておけば、だいたいの出来事を説明できる気がするし、誰かの善意が失敗したときにも「ほらね」と言える。何かを信じて外すより、最初から信じないで当てにいくほうが、かしこそうに見える。
これはPMの仕事をしていても、けっこう思い当たる節がある。
たとえばグロースハックなんて言葉も一時期はやったけど、意外と人間をインセンティブだけで動く利己的な存在だと仮定して実行した施策がうまくいかなかったりする。
いや、ほんと、単純に利己的であってくれたほうが、どんだけ予測可能で仕事は楽になるだろう。
ポイント還元だけでつなぎとめようとして誰にも愛されないサービスとか、あるあるである。
ということで、堂々と「性善説」を基本として、信じて構わないと思う。
いや、逆に、事実としてはそうかも知れないけど、最悪のことを考えて、人間を悪とみなし、恐れてたほうがいいんじゃない?という声もまだあるかも。
しかし、こういう話もある。最初の「みなし」をどこに置くかで、その場に出てくる人間のふるまいはかなり変わる、という話だ。
「あなたはどうせサボるでしょう」と見られた人は、だんだん本当にサボり方を考え始める。「あなたはどうせ得しないと動かないでしょう」と扱われたユーザーは、だんだん得しないと動かなくなる。
性悪説ベースの設計は、人間をその「みなし」に近づけてしまうことがあるのだ。
逆に、「ユーザーは基本的にまともである」「メンバーは基本的にちゃんとしたいと思っている」と信じた設計のほうが、結果的にうまく回ることも多いという研究結果があるらしい。
さて、人間の根本が「善」的だったとして、それが本当にすべて良い結果につながるのかについては、最後に怪しんでおく。
というのも、人間の善は、かなり偏るのである。
正確に言うと、人間は「いま自分が共感できる誰か」には驚くほど善くなれる。
でも、その範囲の外にいる人には、かなり冷酷にもなれる。家族、友人、仲間、会社、国、同じ物語を共有している人たち。その内側には自然に優しくなれる一方で、外側にいる人の痛みは、急に遠くなる。
共感はスポットライトみたいなもので。
照らされた人には温かい。表情が見えるし、痛みも想像できるし、声も聞こえる。でも、そのぶん照らされていない場所は前より暗く見える。
だから、自分の大切な人を守りたい。自分の属する場所を守りたい。自分たちの正しさを守りたい。その気持ちが強くなりすぎたとき、範囲の外側にいる人は、簡単に切り捨てられてしまう。
そう、これは誰かにとっての、悪だ。
そう考えると、結局のところ、人間の本質は「悪」であるというのも、一周回って表現としては成立しうるのかもしれない。人々が想像するような、分かりやすい悪はなかなか存在しないが、善の派生としての悪は容易に生まれうる。
だから、この共感ベースの善はちょっと怪しい。
やっぱり、本当に純粋な善があるとしたら、それは共感から派生する「善」ではなくて、共感も見返りも要らない、「愛」なんじゃないかな、という話になる。
(こちらの「愛」すなわち純粋贈与ついては、「安い愛の話」や「夜のバスとはんぶんこ」で触れたので、気になる方はぜひそちらの記事を)
何かに怒って、誰かの側に立っている瞬間って、正直いちばん気持ちいい。世界が急にクリアになる。
味方と敵がはっきりして、言葉も強くなって、迷いが消える。自分は正しい側にいる、という感じがする。
でもたぶん、その瞬間がいちばん危ない。
なので当面の自分の態度としては、性悪説を否定し性善説を信じる、という極端でわかり易い話に帰結させるのはやめている。
人間は思ったより利己的ではない。かなり協力的だし、かなり親切だし、たぶんかなり善い、けども、その善さは危なっかしい。
そんなもんでしょ、と、冷笑しない。だけど、共感にも酔いすぎない。
共感で盛り上がっている自分を、もうひとりの自分が薄目で見ている。
そんな感じの警戒心を持ちながら、稀に発生する、共感ベースではない、純粋な見返りを求めない善。
すなわち、そんな「愛の奇跡」が起きるのを、日々待っている感じです。




中庸と、言葉に表すと簡単なようで一番難しいありようですね。
良かったです