僕は、なぜ文章を書くのだろうか。
そのいくつかの理由を、誰に書くつもりで書いているか、で分類して考えてみる。
まず、第一の想定読者は、かつての自分、である。
前提として、僕が文章を書く時、多くの場合において、そこに書かれるコンセプトやアイディアは、僕にとってはもはや新しくない。アタマの中で何度か反芻した古びた思考を、言語化しているに過ぎないから。
この場合、文章を書く行為は、僕にとっては苦しく、恥ずかしいものになる。自分にとっては当たり前のことを、大仰に文章にして世に放つのは、くすぐったい廉恥心を感じる。
しかし、ある時にふと感じた。その廉恥と躊躇い
は、あまりにインターネット時代の可能性に対して不遜ではないか、と。
これは僕が、メルカリという会社にいたことにも関係している。メルカリは、自分にとって不要になったものを、誰かが買ってくれるサービスだ。自分にとっては不要でも、それを必要としている他者が、広いインターネット上のどこかにいる。古くなった服、受験の参考書、三日坊主で止めたギター、不要なトイレットペーパーの芯、好きなキャラ以外が当たったガチャガチャ、など、自分にとっては過去になってしまったもの、取るに足りないものを、誰かが価値を感じて買ってくれる。
思考も同じである。脳内で色褪せた考え、当たり前になってしまった知識、取るに足りない雑なアイディア、など、自分にとっては価値が減じたものでも、世界の誰かが価値を感じてくれるかも知れない。
いまメルカリで売ろうとしている服は、かつての自分が愛してやまなかった、生活の一部だったものであったりするはずだ。物の価値の参照点は、必ずしも「今の自分」だけではない。過去の自分や、世界の自分とは違う地点にいる誰か、そういった人たちが価値を掬い取ってくれることを信じて、古ぼけた思考を世に放つべきなのだ。
つまり、ブログの一つの形態とは、「思考のメルカリ」である。
第二の想定読者は、将来の自分、である。
僕は物事や自分の考えていたことを忘れやすいので、たまに文章を書いて残しておくと自分の助けになる。
また、文章を書く活力にもなると思っている。
僕は自分の文章が好きだ。昔のnoteを久しぶりに読むと、こいつはいいこと言っているな、自分と考えが近いな、しかも中々に文章も上手いな、などと感じ入ってしまう.…自分の文章なのに。そうして、不思議とまた何か書きたくなる。
これは、思考のタイムカプセルであり、思考のビンテージ・ワインである。
そして、第三の想定読者にやっと、自分以外の「世界」が出てくる。
僕にとって、世に責任を持って文章を発信するのはカロリーが掛かる。だからこそ、何かを新しく調べたり、考えを言語化する機会にしたり、新しいフィードバックを得たり、そこからの出会いがあったりする。
これは、思考の◯◯…何であろうか。この第三の形態については、また別途掘り下げて書いてみたいと思う。なにかいい名称があれば教えてほしい。


