休みの日、家でスマホを見始めて、気づいたら外が暗くなっていた、という経験、まぁありますよね。
ショート動画を見て、Xを見て、ニュースを読んだり。別につらくはなく、体感的には楽しいわけだが、ただ、夜に風呂に入りながら、今日何をしてたんだっけ、と思う、みたいな。
何もしていないわけではない。一日中、何かを見て、何かに笑って、何かのニュースを見て、深い考察なんかも考えたりしていたはずなのに、具体的な場面がほとんど思い出せない。
こういう日、一日が消えた、とかんじてしまう。実際には消えていないし、楽しんでたはずなんだけど。ただ、その時間をあとからふりかえると何らかの虚しさがある。
最近思っているのが、幸福というものの定義。
いろんな考え方があると思う。
一つは、今、楽しいかどうか。それを積み重ねた総量を幸福とみなす。これはひとつ、わかりやすいと思う。瞬間瞬間、ハッピーでいることは大事だ。それが、人生ずっと続くなら幸福であるといえそうだ。
ただ最近、もう一つ、幸福を考えるための指標があるのではないかと思っている。それは、振り返ったときに、幸せを感じられる記憶を、どれくらい持っているか、ということだ。
たとえば、いまから十分間、「これまでの人生でよかった出来事を書いてください」と言われたとする。旅行に行ったこと。誰かと夜遅くまで話したこと。子どもが変なことを言って笑ったこと。学校帰りに寄った店。ゲームを夢中でやっていた夏。どれくらいの場面を思い出せるだろうか。
そうした、今までの人生が、良いものだったと実感できること、それを感じさせる思い出。それは刹那的な、現在の快楽とは違うものだが、確かに、幸福であると感じられる要素であると思う。
別に、思い出を百個挙げられる人が五十個の人より幸せだ、という話ではない。記憶力には個人差があるし、人と比べるための指標でもない。
ただ、これから自分がどう時間を使うかを考える「問い」としては、案外使える気がしている。
これは、あとから思い出せるだろうか。
この時間は自分の人生にとって、残る時間なんだろうか。
その場で快適な時間と、あとから幸せだったと思える時間は、必ずしも同じではない。
旅行なんて、たいてい面倒だ。準備がいる。子どもと出かければ、急に機嫌が悪くなるし、トイレに行きたいと言い出す。道にまよったり、入った店が微妙なこともある。正直比較すれば、家で寝転んでスマホを見ているほうが、よほど快適だったりする
それでも、何年か経ってから思い出すのは、面倒だった旅行のほうで。雨宿りした場所。道に迷って入った変な店。疲れはてて、帰りは全員無言でスマホみてるとか。当時は困っていた出来事まで、時間が経つと一つの思い出になる。
思い出というと、昔を懐かしむためのもの、「過去」に属するものという感じだが、実際には、今の自分の幸福感の一部、「現在」に属するものなんだとおもう。
誰かに大切にされた記憶があるから、自分は完全に無価値ではないと思える。苦しかった時期を抜けた記憶があるから、いまの苦しさも永遠ではないと思える。
人は、覚えている出来事を並べながら、自分という人間をつくっている。まぁ、幸福感の備蓄みたいなものなのかもしれない。
逆に、快適に消費した数百時間は、ほとんど思い出せない。快適だった時間の総量と、生きたと感じられる時間の総量は、たぶん別物だ。
現代のさまざまな「サービス」は、その瞬間の快楽をうみだすのがものすごくうまい。
次の動画。次の通知。次のいいね。一つひとつは悪くないし、自分も普通に見るし、意味もなくSNSを眺める時間も必要だと思う。ただ、次の刺激を求め続けることと、幸福な人生を送ることは、やっぱり同じではない。
で、最近このことを、生成AIを使っているときにも感じる。
生成AIとのやりとりは、あまりにもスムーズだ。気になったことを聞けば、すぐ答えが返ってくる。その答えから思いついたことをまた投げると、さらに文章が返ってくる。
企画を考えさせ、整理させ、反論させ、書き直させる。自分一人では数時間かかったことが、数分で先へ進んでいく。この感じは、かなり気持ちいい。気づくと一時間、二時間と使っている。
ただ、あとから振り返ると、その時間の記憶が妙に薄い。
何を考えていたのか。どの問いから始まったのか。どこで自分の考えが変わったのか。何が自分の発見で、何をAIに提案されたのか。完成した文章や資料は残っているのに、そこへたどり着くまでの記憶がうすい。
自分で考えていない、とまで言うつもりはない。
問いを立てたり、答えを選んだり、違和感を持ったりしているのは自分だ。ただ、生成の速度が速すぎて、一つひとつの考えにとどまる時間がない。すぐ次の回答が来る。迷う前に候補が出る。言葉になる前の曖昧なものまで、きれいな文章に回収されてしまう。これは便利だし、やめたいわけでもない。
でも、記憶に残らない。
このまま毎日、生成AIとスムーズにやりとりしているうちに、ものすごい速さで時間が過ぎていく。大量の成果物はできるかもしれない。
でも数年後、あのころ毎日AIと何かをしていた、いろいろつくった、でも自分が何を考えて何に迷ったのかは覚えていないとなったら、それはけっこういやかもしれない。
ただ、思い出を増やすというのは、派手なイベントを増やすことでもない。
旅行に行かなきゃ、新しい体験をしなきゃ、写真に残る出来事を増やさなきゃ、となると、人生がイベント消費の競争になってしまう。
実際に記憶に残っていることは、案外地味だ。反復された日常も、時間が経つと「あのころは、いつもこうだった」という一つのまとまった記憶として残る。人生の記憶は、一回の強烈な出来事だけでつくられるわけではない。
いや、もっといえば、ただ寝る時間、ぼんやりする時間、意味もなく動画を見る夜も必要だ。ドーパミン中毒な時間もあっていいと思う。人生をぜんぶ有意義にしようとすると、それ自体が新しい生産性信仰になる。ただ、それだけになるともったいないかなという話なだけ。
人生に意味も無意味もあるようでないとおもう。ただ、味わい方は多くあったほうが楽しい、ってことではある。
毎日が刺激的なことも大事だ。でも、風呂で「ああ、あんなことあったなーたのしかったなー」とぼんやり思い出せる、そんな日々を過ごすこと、過ごせることを、もうちょっと大事にしてもいいかなと、思った。



