スピード感のある奴が嫌いである。
誤解のされぬよう急いで補足をするが、仕事が速い人間のことは好きである。
スピードがあるヤツは良い。一緒に仕事をしていて、心地よい。
僕が嫌いなのは、スピード“感”がある奴である。
例えば、タタタッタンッとタイピング音がやたら速く軽妙な、A氏がいたとする。タイピングの歩留まりが100%であれば、スピードがあることになるのだが、A氏はミスタイプが多い。そこにはあるのは、単なるスピードがありそうな「感」じ、つまり、スピード感である。
逆に普通の速度でタイプしているB氏は、正確でミスがない。スピード感はないかもしれないが、文字を打つという目的に対して、実際のスループットのスピードはA氏よりもB氏のほうが速い。
同様に、タイヤの半径が20インチの自転車を全速力で漕いでいれば、足が快刀乱麻に回転し傍目にはスピード感はあるが、その横を27インチタイヤの電動アシスト自転車が、悠々とした足の動きで抜かしていく。見た目に速度の雰囲気を感じられるか、と実際に速いかは、全く別問題である。
個人に閉じた話であれば、スピード感を演出するのは、趣味の範囲であり、好きにすれば良い。問題は他人を巻き込んで、スピード感を出そうとする輩である。
前置きを説明せずに、突如呼び出して「ほら、あれ、あの件どう?」などと言い出して説明をさせようとする人。前提を丁寧に説明するのに30秒投資するだけで、その後の話がスムーズになり、すぐ話が済むはずなのに、雑な問いかけのせいで議論が混線し、10分話してもまとまらない事態が起きる。
スピード“感”だけである。スピードは遅い。
無駄に、打算無く対策会議を開く人間も、この類である。いま会議をするよりも、情報収集などの作業を優先させ、作業のアウトプットが出揃う時期から逆算して会議を設定するほうが、結果のスピードは速い。しかし、それでは悠長に見える。迅速に会議を招集したほうが、スピード感があるのだ。
設計や逆算なしに、対応速度や運動量だけを上げても、それが最終的なスループットの速さに直結するわけでないのだ。
これまで何度も引っ越しているが、作業員がドタバタ忙しなく走り回っている業者ほど、最終的には作業時間がかかり、スムーズだった業者は、計算された効率的な荷捌きを小走りでこなしていた。
もちろん、初動の速度や運動量が重要になるケースも、あるにはあるのだが。
これを拡大して考える時、AIについても社会の「スピード」を正しく上げうるものなのか?は、疑わしい。スピード“感”がとんでもなく上がることに対しては、疑問の余地はなさそうだ。しかし、少なくとも僕は、スピード感に浮かれる人、スピード感に欺かれる社会が、大嫌いである。
余談だが、「急がば回れ」という諺がある。僕はこの諺にも疑問を持っている。
急がば、の「がば」という言葉は、さほど一般的な語句ではないように思う。少なくとも、もっと適切でわかりやすい言い回しは、いくらでも考えられる。
急いでいるのであれば、急ぐのであれば、急くならば…など。
しかし、「急がば」というマニアックな言い回しを、敢えて採用している。何故か?これが、一番短い文字数で言える語句であるにほかならない。「急がば回れ」と言っておきながら、本人が最も急いでいる。
この諺は言っていることは本質的で尤もであるはずなのに、本人が抱える内的矛盾の余りの強烈さは、擁護をし難い。「がば」ってなんだ。もっと丁寧に説明しろ、急いでいるのか知らんけど。
この諺の言い口は別として、古来よりの先達たちは「何事も丁寧に進めたほうが、結果的に辿り着きたい場所に、早く辿り着ける」ということを言いたいのだろう。
AIが提供するものは、僕らに必要な「丁寧さ」を奪わないだろうか。「急いでいるのであれば」を、「急がば」にしてほしくないのである。がば、は嫌いだ。AIはそんな「がば主義社会」を作るものにならないだろうか。


