友人のsoramiもSubstackを始めたらしい。
彼は長年の友人であるが、世の幅広い情報に触れ、世界の見方が面白い。僕とよく似ているところもあれば、違うところもある。ぜひ購読してみてほしい(soramiと僕については、時間があれば改めて書いてみたい)。
どのようなことを書いていくのだろう、楽しみである。とりあえずは僕と違い、一本目から彼らしい、足腰のしっかりとした文章だ。
楽しく書く、は、彼らしい、言語と書くことについてのテーマだ(soramiは言語に関する興味が深く、実際に自然言語処理系の研究もしていた)。
AIが議事録を完璧にまとめてくれるのに、若手メンバーにそれをやらせる必要はあるのだろうか。自分で書けというのは、「俺たちの若い時代はもっと苦労したんだぞ」「兎跳びしろ、水飲むのも禁止な」というような、老害的精神論に過ぎないのではないか。これまでも技術は様々な仕事やスキルを代替してきた。それでいいではないか。
いや、それは問題だ。なぜなら、「書くことは考えること」だからだ、と Graham は主張する。ゆえに、これからの時代に「書ける人」と「書けない人」の分断が生じていくのは、思っている以上に危険なことだ。それはそのまま「考えられる人」と「考えられない人」の違いになるからだ。
―― 楽しく書く
この感覚はよく分かる。以前にPodcastで、全く同じ話をしたことがある(FREE AGENDA #360, 2025.3.12)。僕は2008年に、コンサルティングファームからキャリアを開始したので、入社後の最も重要な仕事の一つは、議事録を作ることだった。
議事録を「取る」ではない。議事内容を可能な限りメモした上で、それを構造化し、情報の取捨選択をし、語句を洗練させる(同義語を揃えるなど)。
僕は、議事録を作ること通して、書くこと、文を整えること、そして何よりも、考えることに親しんだ。議事録を残さなければ、人はすぐに忘れる。同じ場で同じ話を訊いたはずなのに、複数間で解釈を違える。議事録は、時間と個人の非対称性に対抗するための作為である。故に、議事録には適切な編集能力が、つまり思考することが求められる。
僕は議事録を作ることを通して、思考していた。見聞きしたことの意味を反芻し、情報の構造を意識し、他者に(例えば会議に参加しなかった上席に)どうすれば熱伝導率高く、僕が訊いた重要な情報をコンパクトな知識として伝えられるかを、時間を掛けて吟味した。
そうなると、会議への参加態度も変わる。最終的にどのような力点のストーリーを書いた議事録に落とし込むか、先日の別の議事録の内容との連続性や、不整合などについて、考えを巡らせながら、会議中もメモを取る。議事録と会議の視聴スタンスは地続きになる。だから、これだけAIが普及しても、議事録はAIに取らせればいいというのは、僕には未だに簡単には肯んじられない。
そして、20代前半の僕は、そうして作った自分の議事録を愛でていた。プロジェクトの役に立つものであると同時に、かつ自分が作った作品のように感じられたから。多くの人は違うかも知れないが、僕は議事録を作るのが好きだった。
そう、僕は、好きだった。
だから、それでもいいかもしれない、という気もする。
議事録が苦役だという若手は、AIにやらせればよいと思う。ただ、AIの普及如何によらず、思考すること、書くこと、複数人での論調を形成すること、そういったことが好きな人(もしくは訓練したい人)はいるはずだ。そういう人にとっては、自分で議事録を作ることは無駄にならないはずだ「役に立つ」「訓練になる」というにもあるが、向いている人にとっては「楽しい」と感じられるんじゃないだろうか。
このブログも、わざわざ時間を取って毎日書いている。
書くのが楽しいからだ。
そして、書くという場に向けて、日々何気ない思考を巡らすのが楽しいからだ。
これからの時代、たしかに書く人、書ける人は少なくなっていくのだろう。そして、書くことには、たくさんの実利があるだろう。
しかしその前に、書くことはなにより、楽しくなりうることだということを注視したいと私は思う。…
…(中略)
「AIがスゴい」というけれど、それよりも何よりも私は、人間にとって「言語がスゴい」というふうに思う。こうやってあなたに考えや想いを伝えられるのも、言葉があるからこそでしょう。
―― 楽しく書く
AIが登場し、人間らしさが何かという議論が、数多く行われるだろう。人間として「考える」こと、は今後も重要であり、考えることと書くことは続きである。
ただ、読まれない議事録を義務で量産するような「書く作業」は、AIに任せればよい。その分、人間は「楽しく書く制作」に注力すれば良い、と、そうは思う。だが、楽しく書くためにも、訓練は必要である。
だからこそ、議事録作成——ちょうど「作業」と「制作」の中間にある——のような機会を、敢えて引き受けて楽しむ、そんなやや倒錯した方法論は、実は今後も有効な戦略だと思うのだが、どうだろう。


