前半はこちら。
人間とは本能的に「報復」という様式を愛しているのではないかという話をした。なぜなら、人類史の大半は名誉の文化、つまりやられたらやり返す、ナメんなよ的な世界観で生きてきたから、という。
今日はその続き
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第3の文化
そんな本能もあって、ここから第3の文化となる「被害者の文化」が生まれてきたのではないか、という気もする。被害者の文化、とは一体何なのか。
僕の考えだけど、
被害者の文化っていうのは、「名誉の文化 = 報復することへの憧憬」と「尊厳の文化= 自分以外の第三者が報復を代理する」という様式の悪魔合体なんじゃないかと思う。
誰かから、何らかの被害を受ける。煮えたぎる気持ちがあるから報復したい。でも、加害者に直接手を出す胆力はないし、そもそも社会的にそれはコスパが悪い行為になっている。
だから、被害者であることを前面に押し出して、第三者を動員して代理で報復をしてもらう。意地悪く解釈すると、これが被害者の文化。これは最強のシステムだ。
SNSではこのゲームの天下一武道会が開催されている。
店員の態度が気に入らなければ、店にクレームを入れる代わりにSNSで写真を晒して愚痴をいう。東海オンエアが揉めれば、それぞれが一番の同情を集められる被害者ポジションを取りに行く。LINEのやり取りのスクショを張って、これって私が悪いのかな…と呟く。首尾よく被害者であると認定されれば、見知らぬ多数が、勝手に「第三者報復委員会」を結成して制裁を請け負ってくれる。
偽造の経済学
金本位制の下で紙幣発行が成立するのは、もちろんその金が本物だからだ。
名誉の文化が暴力本位制だとすると、暴力は本物である必要がある。暴力の偽造コストは高い。強いフリは、検証されたら致命的である。オラついて歩くのは勝手だが、ガチで強さを試されたらすぐに偽造がバレる。
被害本位制はその点、通貨の真贋性には問題が多いと思う。
まず偽造が安い、被害者のフリは簡単だ。
逆に、検証するのにコストがかかる。
被害申告を疑うのって、疑う側にもだいぶ勇気がいりますよね、まあ大概叩かれる。一方で、本当かどうかは問わず、擁護に回ればヒーローになりやすい。贋(にせ)金の検証コストが高く、逆に贋だとわかっても流通させた方には特典がある。これは通貨としては破綻している。
贋物を見抜く費用が高い市場がどうなるかは、情報の経済学で「レモン市場」としてよく知られる理論がある――巧妙なポンコツが紛れ込んでいる中古車市場では、質の良い中古車含めて、全体で価格の基準が下がる。悪貨が良貨を駆逐する。悪貨が多く出回りだすと、貨幣の価値が下がり、インフレになる。
被害の市場でも同じことが起きる。偽造被害があちこちに流通すると、通貨全体の価値が下がり、周囲が第三者報復委員会を結成してくれる被害者の地位を得るためにはより深刻な被害の申告が必要になる。
被害のインフレ。
そうすると、本当に周囲の助けが必要な被害者が埋もれてしまう。
報復委員会の出席者
報復委員会側=報復する側、の視点で考えるのも面白いかもしれない。
名誉の文化では、裁くのは自分だった。
でも、名誉から尊厳の文化・被害者の文化と変わるにつれ、裁く主体が「本人→機関→民衆」と移り、自分自身から分離していく。いまでは、SNSで誰でも、引用RTひとつで、誰でも報復委員会の席に座って報復の真似事が簡単に出来る。
報復の実感という観点からすれば、被害者の文化は名誉の文化への回帰なのかもしれない。尊厳の文化における「公的な機関」による裁定は、僕らが求めている「報復」の生々しさには欠けている。
被害者の文化では、報復の生々しさが戻ってくる。引用RTで晒し上げる、報復の手触りの実感という点では名誉の文化が味わっていた報復の快楽を、僕らは数百年ぶりに取り戻したのかもしれない。
しかし、名誉の文化で報復に立つ人間は、身を張っていた。カチコミにはリスクがある。半沢直樹は自分のクビを賭けて大和田に立ち向かった。やられたら倍返し、は自分に4倍で返ってくる可能性がある(UNOのDraw2返しを思い出すな)。その覚悟ごと引き受けて、それでも殴りに行くのが名誉の文化の報復だった。
いまのSNSでの報復委員会はどうかといえば、自分は被害者ではなくとも、匿名の席から安全に報復に参加する。自分が被害も受けず、身を張らずに報復の生々しさだけを掠め取ろうというのだから、そこには名誉も何もない。
被害者の文化が台頭しているのは、そういった便利さからなのだろうが、私たちが半沢に痺れるのは、身を張って報復する人間の清々しさの方により本能的に魅力を感じるからなのかもしれない。
しかし、半沢直樹のオーバーな演技とパンチラインの連続、今見てもいいなあ。
大和田常務、憎々し過ぎ笑


