
sayoと、たまに夜遅くにウィスキーを飲みに行く。最近はめっきり飲まなくなったので、ごく稀な珍しみあるイベントだ。
僕は若い頃、炭酸の入ったアルコールが苦手で、大学時代にはみんながビールを嗜むのを横目にウィスキーをストレートで飲む、ウザい学生だった。30が近くなった頃、やっとビールの泡が美味しく感じるようなった。ウィスキーはロックが一番だけど、世間ではハイボールが流行っていて、ハイボールも時には飲む。
さて、読者の方からこのようなコメントもらった。
なるほど。
言われてみれば、カルトとカルチャーはどう違うのだろう。気になって、少し考え始めた(ここではカルチャーとはいわゆる「企業のカルチャー」のことを指す)ことを少し書いてみる。
カルチャー
企業のカルチャーは、企業が実現したい目的が最初にあり、目的達成のためにカルチャーがあったほうが便利、という順番で存在する。だから、目的という主に対してあくまで従属的な関係で、目的の遂行に有利に働かなければ、「このカルチャーは正しいのか?」という問いは自然だ。
手段だから、変更もできる。ただ、カルチャーを信奉すること自体は副次的なので、浸透には手間がかかり、自生的な性質がある。だから、カルチャーは庭に近い。人間が作るが、手入れが必要で、完全にはコントロールできない。
目的が外にあるから、カルチャー自体の維持に必死になる必要はない。その意味で、カルチャーは本来的には批判と懐疑にある程度はオープンだ1。
Googleは任務以外の研究に勤務時間の2割を使える「20%ルール」で有名だった。イノベーションという目的のために設計されたカルチャーだが、フェーズが変わったためか、Googleは現在ではこのルールを事実上廃止している。カルチャーを変更したのだ。
カルト
一方のカルトは、教義を信じること自体が自己目的化している状態だと考える。そうなると、カルトの教義が正しいかどうか、という問いは意味を持たない。何かに従属していないから、「正しいから正しい」としか言いようが無い。
カルトの教義は好きに作って良い。変更も自由だ。だが、なぜ正しいかについて、背景に理由がないので、疑うものについては懲罰的な対応をせざるをえず、また教義を信じない人たちを遠ざける傾向を持つ。そのため、閉鎖的になる。カルチャーが庭なら、カルトはビニールハウスといったところだろうか。
濃度の違い
企業はカルチャーによって動かされているように思えるかも知れないが、企業がカルト的に運営をされることは全然ある。ピーター・ティールは「最高の会社はカルトに似ている」と言っている。僕が入った頃のメルカリも、組織カルチャーが強いことで有名だったが、冷静に見ればカルト的なところも無くはなかった。
だから、カルトとカルチャーは実は同じものかも知れない2。ふたつの間の違いは、おそらく濃度――ウィスキーの飲み方の違いのようなもので、カルトがストレートだとすれば、カルチャーはハイボールだ。
ウィスキーのストレートは、癖・主張・こだわりが濃い。ウィスキーの味自体が目的な人はストレートで飲むが、そういう人は多くない。世間から隠れ、村上春樹を読んでいそう。まさにカルトっていう感じ。思想の原液。濃く、味わいが美しいが、とっつきづらく、広まりにくい。
一方で、ハイボールは飲みやすくて、多くの人に愛される。好まれる理由も様々だ…流行っているから、料理に合うから、ビールよりカロリーが低いから。必ずしもウィスキーの味自体が目的ではない。ハイボールはまさに、カルチャー的な飲み物。世間受けして、広まりやすいが、ちょっと薄い。でも、味わいだけが目的じゃないから、それでいい。
現役時代のセックス・ピストルズはカルトかも知れないが、現在はパンクロックは大衆化してカルチャーになり、より多くの人が聴くようになった。グリーン・デイ、ハイ・スタンダード、The Blue Hearts...彼らは、1970年のロンドンのパンクシーンを原液とした、ハイボールなのだ3。

炭酸と、モテることと
ウィスキーのストレート/ハイボールという二元論は、モテたい(いや、美しくモテたい)のはなしと、根底で繋がっている。
ガチのウィスキーファンは、若い軽薄な酒飲みがハイボールを呷っているのを苦々しく思っているかも知れないが、ハイボールの流行は戦略的には歓迎すべきことだと思う。一定は世間にモテる要素を作っていかないと、ウィスキーそのものが廃れてしまう。やはり、美しいだけでは十分ではないのだ。
つまり、美しさとは「原液」であり、故に多くの人からは飲みづらいので、適切に「炭酸割り」して、世間からモテる工夫をする必要がある。カルチャーはカルトを普及させるための戦略であり、ハイボールはウィスキーが広がるための運動である….
…。
そうだ、炭酸についてひとこと。
哲学者の千葉雅也が、自己と他者の関係を、“水の中に炭酸のように他者が泡立つ”と云う言い方をしている4。僕はこの表現が好きだ。「モテる」とは他者とどう向き合うか、という視点であり、炭酸という比喩はその一つの解だと思っている。
一切の波立ちのない、透明で安定したものとして自己や世界を捉えるのではなく、炭酸で、泡立ち、ノイジーで、しかしある種の音楽的な魅力も持っているような、ざわめく世界として世界を捉えるのがデリダのビジョンである'と言えると思います…
炭酸、それはつまり、他者を受け入れないでもなく、かといって完全に混じり合うでもなく、泡のように境界をはっきり保ったままで共存する状態である。
炭酸とハイボールが飲めるようになった。これは僕がまさに、味覚だけでなく、心の面でも大人になった証なのかも知れない。
ただ、印象的にはこれは正しくないだろう。カルチャーで有名な企業は、カルチャーとカルトの中間程度に陣取っているから。
英語で書けば、CultとCultureで、これは”colere(耕す)” という同じラテン語から来ていて、耕すを意味する英語Cultivateとも兄弟関係だ。以前に醸せカルチャーと書いたが、語源からすれば「耕せカルチャー」がいいのかも知れない。
カルトが薄まってカルチャーになる。これは、マックス・ウェーバーの云うところの「カリスマの日常化」の途中段階なのかも知れない。



カルチャーは矜恃、カルトは依存、とかなんでしょうか
動物愛護界隈に重ねて、偏ってともすると過激になる団体や非常に名前を知られていて代表が神と崇められているような団体は、カルトかもと思いました😂
私が発信によって目指そうとしてるのはここでいうカルチャーにすることなのかも🤔とも。
耕す🤔うん。私の場合醸すよりこっちのがしっくりくるかもしれません。
隅っこから耕します🫡