“当たり前”を変えていけ
長井君と久しぶりにあって、コーヒーを飲みに行った。
このブログを見て連絡してきてくれたという。
ここ最近は特に、会いたい人、話したい人には臆せずに直接DMを送ろうと心掛けている。その一環として、冒頭の「定期的に飲みに行きたい人リスト」を作った。みなさんに、突然連絡することもあるだろう。みなさんも、もし僕と話したいと思ってくれたら、一抹の壁を乗り越えて、連絡してきてくれると嬉しい。
子どもの話、服の話、大学院についてなど、徒然と会話をしたが、一番時間を割いて話したのは、40代の生き方的なものだった。
彼は起業家である。新卒の会社の同期と一緒に会社を興している。
驚いたのが、彼の同期全般のキャリアについてである。100人ほどの同期がおり(それも驚きだ)、既に8割が会社を辞め、そのうちの8割程の現在の職業は「社長」であるという。
とんでもない比率だ。最早、起業をするのが普通、という世界観なのだろう。
100人全員が入社時から社長に向いていた人間だったとは、到底思えない。長井君に云わせれば、自分に近い同期たちが起業するのを見るうちに「あいつができるなら、自分にも出来るのかも」と、いう思考になっていくのだという。
自分に最も近い5人の平均(You are the average of the five people you spend the most time with)とはよく言うが、どのような環境に身を置くかによって「何が当たり前か」の水準は容易に変動する。
日本政府にいると、公益的で、長期で考えている人が多い。みな頭がいい(学歴は東大が当然)が、一方で合理だけで進まない物事を、嫌というほど味わっている。霞が関に身をおいて、僕の中のスタンダードも徐々に変化した。元来早急な性格であるが、スタートアップにいた頃より、時間軸を長く構えられるようになった。合理と非合理のバランスを、清濁併せ飲むマインドを、持てるようになった。
大学院では、初めて見たときには目眩がした数学の記号だらけのテクストが、1か月して、いまはさほど違和感なく受け入れられる。毎週毎週、数式だらけの教書で授業を受け、教授筆頭に、全員がそれをごく当然の前提として物事を進めていくからだ。
当初、異常だと思っていたことが、あっという間に当たり前になる。これは人間が持っている強力な武器だ。世間から突出した環境に身をおけば、その尖りが自分にとって当然の前提になる。ごく自然に、気づかないうちに成長する。
しかし、この「慣れ」は逆に問題も引き起こしそうだ。
当たり前、は心地が良い。当たり前、は疑わなくて良い。そうして、そうでない物事のあり方に対して、鈍感になっていく。そうして、心地よい生ぬるさの中で、物事は静かに衰退して行きかねない。霞が関にも、同族の近親交配の中での倦怠感がある。
経済学のテクストが数式だらけなのは、慣れれば読めるし、まあそうかという気もするが、僕は未だ不満が多い。数学的な厳密さにかまけて、大事なことを書いていないではないかと思うことが多々ある。
だからきっと、慣れに定住せずに、居場所を移り続ける必要がある、、、そんな風に考えているせいか、気付けば、スタートアップ、独立、公共、学問、と、30歳以降、段差の大きい、よくわからない旅路を巡って来てしまった。
それは詰まり、当たり前の水準が頻繁に変わるということで、これは中々にしんどい。自分の生き方を呪うことは多い。
唯一の救いは、妻である。僕が頻繁に突拍子もない転身の構想を持ち出すせいで、昔は戸惑っていた彼女も、いつしか慣れてしまったようだ。大学院に行く、と突如言い出した時も、黙って応援してくれた。彼女の中で、何が「当たり前」の夫であるかの水準は、いつの間にか変わってしまっていた。(ありがとう)

