GDPについて興味がある。
世界の発展を表すひとつの数字だが、明らかに、たったひとつの数値でこの複雑な世界を代表するのは無理がある。その議論も既にされている。Beyond GDPやポストGDPなどと呼ばれるジャンルで、Wll-Beingの指標化などもそのひとつだ。たった一つの簡素化された数値から、より多面的な世界の把握へ。
これは、以前にポストした、この複雑で豊かなフリーザという存在を、と少し似た話である。フリーザという豊かな存在を、53万という戦闘力だけで代表して語ることに、多くの世界市民は違和感を覚えているであろう。
すると、ドラゴンボールを始めとした少年漫画が、この問題の解決についてどのような戦略を取っているかは、気になる。
キャラの強さをどう表現するか、これは、少年漫画の花形である。しかし、「戦闘力53万」のように直線的な表現だけでは、限界がある。
戦闘力は、単一の数値型である。ドラゴンボールの戦闘力をはじめ、ワンピースの「懸賞金」のように、数値が大きいほど強いという設定などもある。
これは、統計で言う比例尺度であり、GDPと同じ戦略類型である。
強さを実際の戦闘中の描写で表すのも、ひとつの手法である。例えば、強者と思われていた味方キャラを、初出の敵キャラが瞬殺する、などだ(ネフェルピトーがカイトを楽々葬り去る、など)。エピソード・ベースのアプローチだ。少年漫画では好まれるが、社会という意味ではひとつのエピソードを神格化して語り継ぐナラティブ的な手法論であり、好ましくはないかも知れない。
ランク性という方法もある。幽遊白書のA級妖怪・S級妖怪、とある科学の超電磁砲のLevel性など。後者については、最高位のLevel5の7人の中でも、順位が1-7位まであるという設定である。これは、統計で言えば、順位尺度である。大小関係は問題にするが、比例的な数値化を避ける。
厚生経済学が取ってきたのは、大まかに言えばこの戦略である。人間のここの主観的な幸福度を数値化することは出来ない(するべきでない)ため、幸福度が上がった・下がった、という上下関係だけを関心対象とする。
特定の強者のみが持ち得るラベル、というのもある。これは古典的だ。ブリーチの13隊長、ワンピースの七武海、などの、所属。あるいは、封神演義のように「特別な武器(超宝貝)」を所有できる、などもある。また、この手法については入れ替えが発生する点も見どころだ。
統計で言えば、名義尺度である。強引に言えば、アマルティア・センのケイパビリティ・アプローチなどがこの類型であろうか。
考えてみると、現代最強の少年漫画であるワンピースなどは、強さの要素が様々な形で複数編み重なるように取り入れられている。懸賞金という数値の尺度、4皇帝や7武海といった社会的クラス、悪魔の実でも自然系(ロギア)は別格に強いなどの能力の設定、そして覇王色の覇気といった個人の資質。
最近だと、チェンソーマンの敵の強さの表現が面白いと聴いた。〇〇の悪魔、という敵のうち、◯◯に入る言葉が「人間が恐れる度合い」が高いほど、強いというものだ(トマトの悪魔は弱く、銃の悪魔は強い。闇の悪魔は尚強い、など)。名義尺度だが、順位関係を暗喩するもの、という面白さがあり、これは白眉だ。
「私の戦闘力は53万です」は、桁違いの強さを表す演出として、僕たちの世代にとってのひとつの象徴である。如何にして「絶望的な敵の強さを見せつけるか」、は世代を超えた、少年漫画の普遍テーマである。
しかし、漫画は進化しており、いまは単なる直線的な数値の表現を大きく越えた、多様な仕掛けが存在するようである。フリーザ様を苦しめてきた、「戦闘力53万」という単純化の呪い、あるいはGDPという豊かさの尺度は、いずれは過去の遺物になっていくであろうか。
また、ここまでの話とは真逆だが、弱者の表現というのもある。僕の好きなブロガーが、ドラゴンボールのヤムチャが、ザコとしての地位を確立できた理由という「弱者をどう演出するか」という議論をしている。これは注目に値する。
僕はこの論考が大好きだ。確かに、ヤムチャの弱者としての立ち位置は、作中で揺るぎない。雑魚を確立するために、何度も「相手を甘く見て瞬殺される」という演出を繰り返し振り付けられてきた。
ザコは単なる「戦闘力の低い人間」ではない。自分の強さを客観的に考えることのできない存在である。だからこそ、ザコは相手をナメたあげく、あっさりとやられる。ドラゴンボールに登場するザコは、どいつもこいつも見事にみずからの力を過信している。自己評価の狂いこそ、ザコがザコであるための条件なのである。
この考察は見事だと思う。
現実世界にも、こういう人はいる。


