soramiさんの、ヘビの話を読んでいたら、自分もヘビのことについて書きたくなった。
ヘビにはそもそもまぶたがなく、まばたきをしない。あの独特の凝視しているような佇まいは、どこか圧迫感を覚えさせる。
— 「ヘビの話」
蛇の目は、たしかに変だ。こちらを見ているのか、見ていないのかよくわからない。感情があるようにも見えるし、まったくないようにも見える。目が合った瞬間に、人間側のルールが通じないものに見返されている感じがする。
吉野裕子の『蛇』にも、蛇の目にはまぶたがなく、まばたきをしないことが、古代日本人に強く訴えたのではないか、という話が出てくる。
蛇の目にはマブタがないため、その目は常時、開き放しで、まばたくということがない。この「マバタキ」のないことは蛇の目の特徴で、他の爬虫類にはみられないのである。そこでこの「マバタキ」のない蛇の目に出会うと、人間はじっと蛇から睨みつけられているように思う。その結果、蛇の目は特に「光るもの」として受け取られ、古代日本人の感覚に対して、蛇の目は非常に訴えるものがあったのである。
吉野裕子. 蛇 (講談社学術文庫) (p. 124)
まばたきのない目。ずっと開かれている目。光る目。睨んでいるように見える目。
まあ、怖いですよね。
でも、日本では、その怖さのまま、蛇はありがたいものにもなっている。
白蛇、金運、開運、弁財天、宇賀神。財布に入れる白蛇のお守りとか、金運アップの置物とか、観光地のお土産屋に置いてありそうなやつ。かなり俗っぽい。ものすごく厳粛な宗教というより、だいぶ生活に近いところにいる。
怖い、近寄りがたいのに、俗っぽい。不思議な「蛇神」。
日本の神様というと、どうしても古事記や日本書紀のイメージが強い。天照大神がいて、スサノオがいて、出雲があり、天孫降臨があり、国譲りがある。中心があり、系譜があり、秩序がある。神話として整理されているし、国家の物語としても読める。
一方で、蛇神はもう少し変なところにいる。水辺、湿地、田んぼ、谷、井戸、山の奥。そこにいる。明るい中心の神ではなく、足元のぬかるみにいる。
自分は割と、アナキズムにシンパシーを感じて生きている。
「お前、なんで偉そうなの?」
これだけでいい。社長に対しても、政治家に対しても、教授に対しても、親に対しても、活動家に対しても、インフルエンサーに対しても、国家に対しても、市場に対しても、文化に対しても、伝統に対しても、言っていい。
「お前、なんで偉そうなの?」
— 「アナキズムが最近好きという話」
もちろん、国家も制度も会社も組織も、全部なくせばいいとは思わない。そんなことをしたら普通に困る。権威が役に立つこともわかっている。
ただ、感情のどこかで、権威を疑ってかかるところがある。
その正統性って、どこまで遡れるんですか、と。
伝統?で、その伝統で黙らされてきたのは誰?共同体?で、そこから逃げる自由はあるの?家族?で、それは愛なの、支配なの?国家?で、その大義名分のもと死ぬのは誰?
— 「アナキズムが最近好きという話」
めんどくさい奴である。我ながら。
中心の物語を疑っていくと、その下にもっと湿った層が見えてくる。水と稲と土地と繁殖と死と再生が混ざった層。善悪に分類できないものが、下のほうで動いている層。
たぶん、そこに蛇がいる。
蛇は水辺にいる。だから水神と結びつく。蛇は脱皮する。だから再生や生命力とも結びつく。毒を持てば死の気配があり、田畑のネズミを食べれば農耕の守り手にもなる。
縄文時代の土器や土偶にも、蛇を思わせる意匠が多くある。こちらの写真は、縄文中期の八ヶ岳周辺で発見された土偶で、うねるような装飾や、とぐろを巻く蛇のような表現がかなり強い存在感を持っている。頭部に蛇のようなものが乗っていると解釈される。このような事例は多数あり、縄文土器に多く見られる、渦巻紋様などは蛇なのではないか、ともいわれる。
今の日本神話には見えてこない、それ以前の古層にうもれた、力強い「蛇神」の信仰について考えさせられる事例であるといえる。
もちろん、縄文人が何を考えていたかを、現代のこちら側から簡単に決めることはできない。ただ、地を這い、水辺に現れ、脱皮し、突然姿を消す生き物に、人間が何か特別なものを感じてきたこと自体は、かなり自然な気がする。
しかし、その蛇神的なものは、後から来る秩序の物語の中では、しばしば退治されるものとして描かれるようになる。
ヤマタノオロチはスサノオに倒される。世界の神話を見ても、蛇や竜はよく倒される。インドラがヴリトラを倒し、聖ジョージがドラゴンを退治し、アポロンがピュトンを射る。新しい秩序が、古い混沌を倒す。
夜刀神という蛇神が『常陸国風土記』に出てくる。谷あいの湿地を支配する蛇体の神である。人間が湿地を開拓しようとすると現れる。
蛇神は、生命力の神である。それは強すぎると、人間、支配者から見れば、邪魔なのである。中央から見れば、国土開発の邪魔をする神となる。
中心が、ぬるぬるしたものを殺す。明るい秩序が、湿ったものを封じる。英雄が、土地の奥にいた何かを倒す。
これにより、逆の視点から見ると、反権威的な集団にとっては、蛇神はその象徴として崇める対象となる。
まあ、そういうところはシンプルに、好きなのだと思う。蛇や竜は、いつも少し反権威的である。中心に従わない。理性に収まらない。暗くて、湿っていて、過剰で、人間の本能や土地の力を抱え込んでいる。
ただ、もう少し、深く潜ると、日本の場合それほど単純でもない。
たとえば、先ほどの夜刀神である。面白いのは、ただ退治されて終わるわけではないところだ。
祀られる。境界を引かれる。ここから先は人間の土地、ここから先は神の土地、というように、整理されて再配置される。共存。
この感じがまたよい。完全排除ではない。扱いづらいものを、扱いづらいまま置く。怖いものを、怖いもののまま祀る。人間の生活圏に入ってこられると困るけど、いなかったことにはしない。
ヤマタノオロチは退治される。でも、蛇的な神は消えない。大物主は蛇体の神として語られる。三輪山の伝承では、神は蛇として現れる。夜刀神も祀られる。弁財天には白蛇がつく。宇賀神は、かなり奇妙な姿のまま、財福の神として残る。
蛇神はしぶとい。
しかも、かなり俗っぽくなる。金運。商売繁盛。芸能。縁起物。白蛇の財布。白蛇の置物。こう書くと急に安くなるのだけど、安くなることも含めて、生き残っている感じがある。
日本文化の、善悪というわかりやすい表現では表せない、かといって、弱者に対する優しい眼差しといったそういったものでもない、その両義的な魅力が、蛇神という存在を探ると見えてくる。
soramiさんは、ヘビの「熱を視る」という能力から、これからの自分たちの営みにひとつの示唆を見ていた。
ヘビには、もうひとつの「目」があることをご存知だろうか?
それを「ピット器官」と呼ぶ。人間が目で「光」を感知するように、ヘビはこれを用いて「温度」を「熱の映像」として知覚する。(中略)
ここで私が言いたいのは、「熱を視る 🔥」という視点が大切ではないかということだ。
— 「ヘビの話」
現場の具体を見る。大きな構造を見る。時代の流れを見る。それだけではなく、そこにある熱を見る。たしかに、それはかなり大事だと思う。
では、自分は蛇に、いや、蛇神に何を見るのか。たぶん、「湿りを視る」ということなのだと思う。
いま見えている制度や秩序や正統性だけを見るのではなく、その下に埋まった、湿気を帯びた何かを見る。明るくて、わかりやすくて、カラッとした合理的な話だけではなく、ぬかるんだものを見る。国家や会社や共同体が、いかにも最初から正しかった顔をして立っているときに、その足元に何が押し込められているのかを見る。
湿りとは、複雑なもの、わかりにくいものが、そのまま存在しているときに漂うものなのではないかと思う。割り切れないもの。整理しきれないもの。怖いけれどありがたいもの。邪魔だけど必要なもの。俗っぽいのに神聖なもの。排除されたはずなのに、名前を変えて残っているもの。
そういうものを、わかりやすく理解するだけではなく、見つけ出したうえで、そのまま、わかりにくいまま、全感覚を総動員して、受け取る。
すぐに正しいとか間違っているとか、古いとか新しいとか、合理的とか非合理とかに分類しない。少し気持ち悪いなと思いながら、それでも、これはここにあるのだな、と認める。たぶん、そこからしか自分の血肉にならないものがある。
目の前の熱狂だけではなく、その下でまだぬるっと動いているものを見る。正統性の顔をしたものの足元に、何が埋まっているのかを見る。
自分はたぶん、そういう目も大事にしながら、書いていきたいのだと思う。
熱を視ること。湿りを視ること。
どちらも、世界をわかるため、そして、わかった気にならないための目なのだと思う。




