ニュースレターを始めた理由について、よく訊かれる1。
コレに関してはちょっと前にnoteにも書いていて、要はXを始めとするSNSさんたちのことがイヤになったから、ということを雑に説明(参考:Xへの抵抗戦略 / ニュースレター始めました)してはいる。
のだけど、もう少しちゃんと説明できそうな気がしてきた。特に、経済学的・政治思想的な切り口で。なので、それを少し書いてみたいと思う。
短期は需要、長期は供給
さて、最近は大学院でマクロ経済学の「概論」と「成長論」を併せて学んでいる。これがだいぶ面白い。経済成長とは何によって駆動されるのか?
マクロ経済学が教えるに、それは経済を眺めるスパンによって違う。
経済とは、
・短期的には「需要」の量によって決まる
・一方で、長期的には「供給」の能力によって上限が制約される
というのがマクロ経済成長論の標準的な説明になる。需要喚起は短期的には経済に効くが、長期で考えれば供給能力を高めないと持続的な成長ができない。
これはかなり肌感と合うものがある。メルカリで成長戦略をやっていた時に、クーポンやポイントなどの買い手の需要刺激策は確かにその月の売上を大きく伸ばすが、長期の成長となるとどれだけ良い商品が出品されるか――つまり供給能力に依存する、というのは間違いなくひとつの法則だった。
短期は需要で決まり、長期は供給で決まる。
これは、「書くこと」について、にも当てはまると思うんです。
何かを書けば、人に読んでもらえる。いいねが付いたり、続きを待ってますとコメントを貰ったりと、承認の回路が筆を動かす。うん、嬉しい、もっと書きたい。これは需要に駆動されている経済だ。
でも、承認だけではずっとは続かない。毎日書くと、反応が全くない記事もある。称賛には慣れる。書いていることが求められているのか、不安になる時もある。需要は短期的に自分を動かすには有用だが、長いスパンでは動力としては不十分。
長期で書き続けられるにはやはり供給側 ―― 書きたいことが自分の中にあるか、書けるものが残っているか。書きたい衝動、供給者の内側の事情が持続性を決める。
水の箱
短期では需要、長期では供給――同じ経済成長でも、なぜ短期と長期で支配するファクターが違うのか。これは経済学では「価格調整の有無」で説明される。
「水の箱」というメタファーで考えてみよう。ある大きさの箱がある。これに水を入れてみて、水が満ちている体積が経済のサイズになるとしよう。ここでは、水の量=需要、箱の体積=供給という比喩と考えれば良い。
もし手元にある水の量が箱の体積よりも小さければ水の量=需要=経済の大きさ、となる。これが短期の経済の考え方。
ここで、短期では箱の温度は25℃で一定だが、長期的には箱の温度は融通無碍に上下して適切な温度調節がなされると仮定する。これは、実際の経済学で言えば「価格」の変化に該当する。市場は、その調整メカニズムで需給に応じて商品の価格を高くしたり安くしたりする。経済学用語で短期というのは「価格の調整が十分に起きない程度の期間」という意味だ。
温度が変わるので、箱の大きさに対して水量が少なければ、温度を上げて水を気化し水蒸気で箱を満たすことも出来る。すると、箱の体積=供給=経済の大きさ2となる。最終的には箱という器のサイズが経済の大きさを決める。これが長期で見た時の経済学の考え方である。
人類史を長いスパンで見ると、人間は技術の進化によって箱の大きさ自体を大きくする(=供給力を上げる)ことで、経済を発展させ続けてきた。それに対して、需要はあとから付いてきた。価格が市場で自動調節されるのであれば、供給と需要はある価格のもと一致する。だから長期では、需要の心配は要らない。重要なのは箱の方だ。
供給が長期の持続的成長を担保する。需要ではなく。
書き手も、周囲からの承認・何を求められているか、という需要の要素は短期的には重要かもしれない。しかし、自分が何を書けるか・書きたいかという、確固たる供給能力抜きにしては、長期的なロングランは出来ない。厳しい話…だが、これは経済学的にも妥当な事実だということだろう。
注意の貧困とアテンションへの課金
書く人は多くいても、長く書き続けられる人は多くない。
とはいえ、文章の供給者がどんどん増えていること自体は事実だ。人類にとって文章を書くという行為は、供給の制約がどんどんと外れていく過程の中にある。
昔は字を書ける人自体が少なかったが、いまや先進国であれば殆どの人が文字を書ける。インターネットは、文章が書けても書く場所がない、という制約を取り払った。発信のコストがゼロに近づき、そしてついには生成AIで生産コストもゼロになった。文章の供給量は無限に増大する方向に向かっている。
一方で文章に対する「需要」は大きくは増えない。
人類が読みに使える時間は、1人1日24時間でずっと変わらない3。需要の量は固定されたまま、供給が増え続ける世界。そんな市場では何が起こるのか?それについては、経済学者のハーバート・サイモン4が半世紀前に言い当てている。
「情報の豊かさは、注意の貧困を生む」。
みんなが服を欲しがるのに服の供給が限定的な世界であれば、服は高価になる。すると、全員が一張羅の服を手入れをしながら大事に着る。ところが、服の供給が無限に増えれば、服の値段は安くなり、簡単に着捨てるようになる。ユニクロの登場に寄って、衣服の多くのものが耐久財からワンシーズンの消耗品になった。
供給が十分なものに対して、人は深い注意を向けなくなる。
これは文章についても同じで、次から次へと誰かが書いたものが絶え間なく供給され続けるようになった結果、人々は以前ほど真剣に文章を読まなくなっている。この傾向はこれからも加速するだろう。
いまの世の中では「誰かに真剣に読んでもらう」ことのほうが大変だ。書くという供給側から、読むという需要の方に希少資源のボールが移っている。
経済学的には、希少なものには価格が付く。
Xでは投稿を広告費を払ってブーストし、PVを上げる機能がある。読み手という資源希少性に値段が付いているということだ。人に読んでもらうのにカネを払う時代。
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書くという供給と、読むという需要の間に「市場」が形成されている。
….という話ではない。寧ろ逆で、実はこれは「社会主義国」の話なのである。そしてそれが、僕がXに嫌気がさした最も大きな理由かも知れない。…
→ 明日配信の「後編」へと続きます5。
ただ、実需と乖離した量の箱を用意して、温度だけでなんとか満たした箱は、殆どが密度の低い蒸気で満ちていることになる。かさは増えたが、中身は薄い。これはインフレーションである。
AIが読んでいいねやコメントをくれる世の中も近いかなあ。僕はAIに文章の批評をもらうのは割と嫌いじゃないけど。
「限定合理性」の概念など、人間の認知の限界を真面目に考えた経済学者。
だいぶ長くなったので、前編・後編に分けさせていただきます!



