あの景色――なにか確かな、この世界における大事なものがあるような気がした。
hikaruさんの記事の中で、まず残ったのはこの一文だった。
手足口病の熱。眠れない子ども。抱えている腕の重さ。泣き声。窓の外を流れていく街の灯り。家にいるとどうしようもない。だからバスに乗る。降りる。また反対方向のバスに乗る。何かが解決するわけではない。病気が治るわけでもない。泣き止む保証があるわけでもない。ただ、そこにいるしかない。抱えて、乗る。降りる。また乗る。
バスは、泣いている子どもを抱えた親が、ただそこにいるための場所になる。マンションの屋上は、遠くの電車の光を見るための場所になる。何も解決しない。何も達成しない。
全ての理の、境界から見えた景色。それは美しいものに決まっている。
子どもは小さな自然である。
たしかに、と思う。
自然は美しい。森も海も空も、夕方の光も、雨の匂いも、風が抜ける感じも、たしかに良い。自然に触れると人間性を回復する、みたいな言い方も、まあ、わからなくはない。子どももそうである。かわいい。弱い。守らなければいけない。ものすごく小さい。美しい。自然だ。
でも、自然は美しい顔だけで来ない。
虫は出る。湿気でカビる。台風は来る。暑すぎると死ぬ。寒すぎても死ぬ。自然は生活を豊かにする。生活を壊しもする。
子どももそうである。出発直前に靴下が嫌になる。寝る時間に走り出す。昨日まで好きだったものを今日急に嫌いになる。予定、段取り、管理、予測。そういうものを、子どもは悪意なく壊してくる。カレンダーを見せても無駄である。Notionで管理しても無駄である。ガントチャートを引いても、子どもは泣く。自然なので。
だから、子どもを自然のままにしておけばいい、わけがない。
miyattiさん、近代化につれそんなこどもでさえ管理と制御に置こうとする時代になってきてはいないでしょうか。
— 「その小さな自然」
そう問われて、まず思ったのは、いや、子どもは、自然は、制御されなければならない、ということでもあった。
道路に飛び出す。歯を磨かない。人を叩く。生活できない。早く寝なさい。歯を磨きなさい。道路では止まりなさい。時間を守りなさい。片づけなさい。言わないわけにはいかない。子どもの自然は、少しずつ削らなければならない。
嫌な話である。
でもしょうがない。
泣きたいときに泣けなくなる。眠いからといって寝転べなくなる。嫌だからといって帰れなくなる。意味のないことだけをしていられなくなる。社会に渡されていく。
少しずつ、子どもではなくなっていく。必要なことだと思う。
私が好きな、柄谷行人という思想家は、社会を「交換」から考える。
その解説をわかりやすく書いているページから引用する。社会を構成する「交換」のタイプは、ざっくり三つあるという。
「A:互酬(贈与と返礼)、B:服従と保護(略取と再分配)、C:商品交換(貨幣と商品)」
子どもを例にこちらを解説してみる。
子どもがいると、家の中に「互酬」が戻ってくる。互酬とは、簡単に言うと、プレゼントをしたらお返しをもらう、そういう交換である。お世話。迷惑。恩。負担。お互いさま。親なんだから。家族なんだから。そういう湿った言葉が、ぞろぞろ戻ってくる。これは温かくはあるが、でも、すぐにめんどくさい感情にもなる。贈与と返礼の世界。
一方で、子どもは「服従と保護」にも置かれる。これは、権力が何かを集め、配り、守るかわりに従わせる仕組みである。国家や行政や学校に近い。子どもも、学校、行政、福祉、医療の中で、守られる。だから管理される。安全にする。だから記録される。救われる。だから分類される。怖い。でも、それがあるから、子どもは制御され、安心安全に育つことができる。
そして、子どもは「商品交換」にも巻き込まれる。商品交換とは、簡単に言うと、お金と商品の交換である。もちつもたれつでも、国家的な仕組みでもなく、フラットに貨幣によって誰もが参加できる、けれどもちょっと冷たい交換。保育、習い事、塾、ベビーシッター、家事代行、知育アプリ、外食、宅配。子どもはかわいいから無償です、とはならない。でも、その冷たさに助けられる日もある。親も子どもも、なんとか持ちこたえる。
柄谷は、人間と自然の関係もまた、物質代謝、つまり交換として見ていた。自然から食べ物やエネルギーを受け取り、廃棄物や廃熱や疲労を返す。
自然も、人間と同じく、こうした俗っぽい交換の輪の中にいる。そして、子どもは、かなり強烈な自然である。泣く、食べる、汚す、熱を出す、眠らない。
自然は、子どもは、なにか特別なものではない。社会を、世界を構成している、一つのモジュールにすぎない。だから、その交換の輪の中で、制御され、管理されるのが普通なのである。
hikaruさんのブログでは、もうひとつ、代々木公園のカラスの話が、なぜか残っている。
「かってにもっていくのはだめ、はんぶんこ」
— 「その小さな自然」
なんか、すごい。すごみがある。
返して、ではない。罰して、でもない。所有権を侵害した、でもない。カラスに対して、はんぶんこ。
大人は自然を前にすると、わりとすぐ諦める。自然とは、こちらのルールが通じないものだからだ。カラスだしな、と思う。仕方ない、と思う。警察を呼ぶわけにもいかないし、反省文を書かせることもできない。
子どもは、諦めない、というより、人とカラスの境界がない。
そして、カラスに対して、与える必要がない、交換をする必要がない、それなのに、与えることをよしとしている。当たり前のように。
この話は、この世の理を超えている。
柄谷は、三つの交換様式のほかに、もうひとつ、別の交換の形があると言っている。
「互酬」も、「再配分」も、「商品交換」も、必要である。でも、それだけだと息が詰まる。
あらゆる親切が負債になる。あらゆる保護が服従になる。あらゆる関係が価格になる。世界はよくできている。よくできているが、かなり苦しい。
そこで、もう一つの交換の形が出てくる。
「交換様式C・B・Aの揚棄を可能にするのは、ただ一つ、交換様式Dが到来することです」
彼はそれを「交換様式D」という。「純粋贈与」ともいう。
それは、単なる優しさではない。親切でも、助け合いでも、地域のつながりでもない。「互酬」「服従と保護」「商品交換」だけで閉じてしまう世界に、別の穴を開けるものなのだと思う。
返してもらうためではなく、与える。従わせるためではなく、与える。恩を着せるためではなく、与える。売るためではなく、与える。
なぜか与えてしまう。
損得が通らない。ロジックが通らない。
交換なのに、返ってこない。いや、返ってこなくてもいい。そういう変な交換。
それは、キリスト教や仏教、イスラム教など世界宗教を連想させる。
何かを返してくれる相手だけを愛するのではない。味方だけを救うのではない。血縁や共同体や国家の境界を越えて、なぜか与えてしまう。
世界の全部がそれになればいい、とは思わない。たぶん、そんなものだけでは社会は作れない。制度はいる。市場もいる。学校もいる。国家もいる。家族もいる。
でも、やはり、「見返りを求めない行動」でできた世界。まぁ簡単に言うと「愛」だ。それに憧れないわけがない。
しかし、「交換様式D」は、設計できる理想社会ではない、と彼は言う。みんなで正しく助け合いましょう、という道徳でもない。地域共同体を再生しましょう、という行政スローガンでもない。
じゃあどうすればいいんだ?
「それがいつ、いかにして来るかはわからない。それは、われわれの意志を越えています」
作るものではなく、向こうから来るもの。そう言うものだと、柄谷行人は言ってる。
うん。わかるような、わからんような。いや、よくわからん。実際この交換様式Dについては、多くの知識人がわからん、といっている。
ただ、まさに、夜のバスとはんぶんこの話。
hikaruさんは、何か意図して、管理と制御から抜け出そうとしただろうか。たぶん違う。極めて真っ当に、親の責務として病院につれていく。子どもの健康と精神の安定のために、近所の公園につれていく。まっとうである。真っ当なことが大事だ。
僕の解釈で言うと、既存のまっとうなこと、あたりまえのこと、世の秩序、交換形態から、逃げるな、ということなのだと思う。ちゃんと世話をする。ちゃんと管理する。制度も市場も使う。まっとうにやる。そのまっとうさのただ中で、たまに、こちらの意志を超えて何かが開いてしまう。そこに少しだけ希望がある。
管理と制御。服従と保護。互酬。資本主義。すべて受け入れる。受け入れて、逃げずに引き受ける。それは、人間を、自然を、制御する思想だ。
子どもは自然だから美しいのではない。自然は制御されなければならない。子どももまた、制御されなければならない。
それを引き受けた場所で、人間の意思を超えて、やってくるものがある、ということ。これは直感的にわかる。
自然と、子どもと関わっていると、制御だけでは届かない場所が、たまに突然、開く。
もちつもたれつでもない。支配と保護でもない。お金を払ったから何かを受け取る、ということでもない。自分の中から、ふつふつと湧いてくるもの。疲れているのに抱える。眠いのに起きる。意味がわからないのに付き合う。ロジックが通らない。損得も通らない。なのに、やっている。
それは管理と制御の、徹底の先にある。
夜のバスに戻る。
泣き止まない子どもを抱えて、バスに乗る。どこかに向かうわけではない。何かを解決するわけでもない。ただ、そうするしかないから、そうしている。都市の中を移動しながら、親子は少しだけ、家庭からも、学校からも、市場からも、国家からも、ずれた場所にいる。
バスは交通機関なのだけど、その夜だけは、親子を少しだけ受け止める場所になる。屋上から見える電車の明かりも、ただの都市の光なのだけど、その夜だけは、何か別のものに見える。
境界的なもの。世の理からズレたもの。美しさ。
ただ、何かとの交換ではなく、純粋に掛け値なしに分け与えてもよいもの。
子どもは泣く。予定は壊れる。家族は温かいし、家族は怖い。学校は管理するし、学校は逃がしてくれる。市場は嫌だが、市場に助けられることもある。
自然は美しい。
美しい顔をしているからではない。
面倒くさく、危なく、管理されなければならないのに、それでも管理を超えてくるからだ。すべての理、すべての交換の境界にあるからだ。
子どもも、たぶんそうなのだと思う。
そしてたぶん、大人の中にもまだ少しだけ、そういうものが残っている。




マンションのベランダに出た。明日まで響くような音量で子供が泣いている