その小さな自然
Re:ビカクシダの夜

バスに乗ることが増えた。
理由は幾つかあるが、ひとつまえに住んでいた家が駅から少し離れていて、しかしそれを救うように目の前がバス停だったのが大きい。今の家も少し歩けばバス停がある。昔はバスなんて乗ろうと思わなかったが、こどもがいる生活というのもあり、バスは便利だ。
soramiのビカクシダの夜を読んでいた。
それでも、北海道に暮らしていたとき、圧倒的な自然の力を前にして、私はただただ諦念を覚えた。
たとえば、吹雪で鉄道やバスが止まったとき。それは珍しいことではない。だが、目の前で吹き荒れるその様を見せつけられると、文句を言う気など起きなかった。「これは、そういうものだ。仕方がない、どうしようもない」…
去年、soramiが北海道に住んでいた時に彼の元を訪ねに行った。なるほど北海道は雄大だった。白く連なる大雪山に視界が囲まれる。典型的な都会タイプの引きこもり人間の僕は、何処か居心地の悪さを感じながら眺めていた。
僕という人間において「予測」が占める割合は大きい。これは性格の問題だと思う。不慮の事態ではパニックになりやすくアドリブ力が低いので、不確実なことが苦手である。なるべく事前に予測をし、可能な限り不確実性の低いルートを想定し、計画を立てたい。意識しなくても脳が勝手にそう動く。
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そんな僕にとって、都会は住みやすい場所である。東京には、大学時代からもう20年以上住んでいることになる。
東京、特に都心は好きだ。何もかもが入念に管理され、制御されている。電車は時間通りに来る。店員が訓練されたチェーン店が多い。不慮のことが起きてもタクシーがすぐ捕まるから、時間には間に合う。不確実性は制御されている。都会のバスは吹雪で不意に停まったりはしないが、それでも山手線の精密なリズムに慣れると、「バスはランダムで不確実性が高いなあ」と思ったりする。道民からすれば、雪だるまで殴りたくなる話かも知れない。
近代化とは「脱魔術化」の過程だとマックス・ウェーバーは云った。世界は、自然や神や霊、説明のつかないものに満ちていた。近代化とは、その全てを説明可能で、制御可能な対象に変えていくプロジェクトといえる。
これは、soramiが「崇高」と書いた自然とは真逆のものだ。東京には「仕方ない」が少ない。全部が制御できるという前提で暮らしているから。バスが遅ければ苛つく。Goでタクシーを呼ぶ。一杯目のビールが遅ければ店員に文句を言う。
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ジャン=ジャック・ルソーは、所有権の概念そのものがない「自然状態」では盗人に対する怒りの感情自体が成立しないと考えた。自然の中で、人間が獲物を手に持っている。それを躓いて川に落としたり、キツネに盗られてしまうことがある。でもそれは、自然状態においては「仕方ない」以上のものではない。それはあたかも自然現象の一種のようなものだ。晴れる日もあれば雨の日もある。
仮にそれが、人間の盗人であっても変わらないのではないか。今日は雨だから、ちょっと不運、でも仕方ないな――それと同じにしか感じない。そういう話。
現代の東京では「仕方ない」が少ない。
でもこの前、面白いことがあった。ムスメと自転車で代々木公園にいった。遊んで、駐輪場に戻るとムスメが「あー!」と声を挙げる。自転車のサドルに大きなカラスが悠々と立っている。かごに入れたバッグにお菓子が入っていたので、目聡く拝借しにきたのだ。僕らに気がつくと、カラスは優雅に飛び去っていった。バッグからお菓子は消えていた。
ムスメは憤っていた。以前にも、代々木公園で、カラスが別の子のお菓子を盗んでいくのを見たらしい。「かってにもっていくのはだめ、はんぶんこ」らしい。
僕も少し憤る気持ちがあった。でも、まあ、仕方がない。元々が彼らの住む場所だ。カラスに怒ってもどうにもならない。ビカクシダの夜にもあったが、野生のカラスは「仕方なさ」を教えてくれる、都会に残る数少ない自然的な存在なのかもしれない。
….
とはいえ、そんな東京の僕のすぐ身近に圧倒的な「仕方ない」の源泉はある。それは何を隠そう、カラスに憤っているムスメの方なのである。ヤツは予測性の敵で、制御の反逆者で、不確実性の塊である――それがこどもというものかもしれない。
晴れた日にも長靴を履くと言って訊かない。人が大勢いる代官山蔦屋で20分ぶっ通しで泣きやまない、理由は「煎餅の割れ方が気に入らなかった」から。行こうと約束したご飯屋には、着いた途端に「やっぱりイヤ」という。おむつをかえる途中におしっこをかけられる。全く制御できない。
仕事ではそこそこ出来る方のつもりでいる。でも、最近ムスメはパンツを前後逆に履くのにハマっていて、これを正すこ術をしらない。聞く耳は持たない。でも強制も出来ない。たまに普通に履いたかと思えば、その上にもう一枚履く。
無力感…でも「仕方ない」のである。単にこどもはそういう存在、それ以上のことはない。その意味では自然に近いのだと思う。
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幼い子供は病気も多い。
ムスメが1歳の半ば頃、手足口病に罹った。この時はなかなかに壮絶だった。食事・水分・睡眠も一切取れなくなり、睡眠不足と空腹で錯乱して何時間もただ泣き叫び続けるムスメは、悪いものに憑かれた知らない生き物のようだった。
そんなムスメをみると、現代社会でも、こんな身近になす術のない、どうしようもない理不尽がある。言葉通り「仕方がない」。
気を晴らすために、ムスメを抱いてバスに乗り、降りてまた反対のバス停から乗り、を何度も繰り返した。気持ちが紛れたのか、外に出ている間、彼女は泣くことをやめてくれた。ムスメは乗り物が好きだ。久しぶりの静かさ。バスに飽きると、マンションの屋上に昇り、遠くに明かりの灯った電車が線路を走っていくのを二人で何時間も見ていた。それより他に仕様がない。街の夜景と、電車の明かりがゆっくり直線上に走っていく様を、僕はよく覚えている。あの景色――なにか確かな、この世界における大事なものがあるような気がした。
こどもはその存在自体が「小さな自然」なのかもしれない。北海道の大自然が制御不能なように、こどもたちも予測できず、制御できず、我々に「仕方ない」に屈服する気持ちを教える。
僕はムスメと暮らすようになってから、物事への寛容さが増したと思う。仕方ないものは仕方ない。近代人が捨て去ろうとしたもの、理解不能なものの受け入れ方、育児はその再検討を僕たちに突きつけてくる。
自然や天災が持つ「崇高」とは違うかも知れない。それらは畏怖と力を持って、僕たちに抵抗の意思を捨てさせる。一方で、こどもは可愛らしさと弱さを持って、僕らを「仕方ない」と屈服させる。そこには、また別の「崇高」さがある。
…
大自然から切り離された大都会・東京で暮らす日々。快適だろうが、足りなさも覚える。それでも部屋の片隅にある少しの緑が、いくばくかの慰みになる。
――ビカクシダの夜(sorami)
予測と制御がもともと好きな僕と違い、soramiは混沌を愛しているのだろう。そんな彼にとって、この東京は人為と計画に満ち、すこし物足りないかもしれない。
でも安心してほしい。君の元にもやがてはこどもが訪れる日が来るだろう。それは、ビカクシダなんかよりも遥かにコントロール不能で、意味不明――それでも愛おしく崇高への屈服を理不尽に迫る「小さな自然」が、家の中に居着くということなのだから。
世田谷の空はとても狭くて
弾けだすにはなにか足りない
あの娘はいまも愛を放って
バックビートにゆられてく――バックビートにのっかって(フィッシュマンズ)
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…上手いこと主題を閉じれたところで、最後に業務連絡ですが、
miyattiさん、近代化につれそんなこどもでさえ管理と制御に置こうとする時代になってきてはいないでしょうか。そこまで深めて書き切る時間が無かったのですが、そのあたり造詣深いと思うので、ちょっと書いてみてくれないでしょうか。お待ちしています。





公開交換日記みたいで良いですね
カラスで「仕方ない」を読んで、40年近く昔のことを思い出しました。イギリスの小さな町、夕方の空を数百羽のカラスが埋め尽くしています。そこにバリバリと爆撃のような音が。カラスたちによる大量の糞爆撃でした。不運に私も頭や肩に被弾。といっても相手はカラス。「仕方ない」。でも、地元の人が「鳥の糞を浴びれるのは、幸運の予兆だよ」と教えてくれました。それがイギリスの文化なのか、その人の個人的な思想なのか、不明ですが、不運を少し前向きにとらえ直せたエピソードです。毎回、ニュースレターを拝読していると、忘れていた昔の記憶を引き出されることが多いです。こんなことは、youtubeなどの動画でも、ポッドキャストのような音声でも起きないんですが、不思議です。