最近、「愛」について書くことが増えた。前に技術書典でだした刹那という本でも書いたし、Xでも書くし、Substackでもつい書いてしまう。愛が大事、みたいなことを。
でも、やはり、「見返りを求めない行動」でできた世界。まぁ簡単に言うと「愛」だ。それに憧れないわけがない。
あとは、美が大事だの、あとはモテたいという恥ずかしい記事も書いた。美もモテたいも広い意味では「愛」の話だと思っている。
まーーー書きながら、自分でもうっすら思っています。うさんくせーと。
「愛」だの「美」だの「モテ」だのを語る人間は基本的に胡散臭い。
とりわけ私は、どちらかというとあきらかに、あーきらかに、愛というより「毒」の人なので、その口から出る「愛」はなおさら怪しい。というか、安っぽく聞こえることでしょう。
でもいいんです。私が今日語りたいのは、まさにその「安い愛」についてだから。
自分にとって愛とは、一言で言うと、「純粋贈与」です。
交換なのに、返ってこない。いや、返ってこなくてもいい。そういう変な交換。
見返りを求めずに、誰かや何かに対して利他的な行為をすること。
これは前に、柄谷行人の交換様式の話として書きました。互酬でも、服従と保護でも、商品交換でもない、四つめの変な交換。
で、こういう愛って一般的には、とても重いもの、自己犠牲的なものだと思われている気がするんですけど、実際は逆だと。
自己犠牲的なのは、互酬的なもので、重くて、愛というより呪いに近い。
じゃあ、愛って何なのよ。
私は思うんです。「重さ」ではなく「軽さ」。
つまり、「安さ」こそが愛につながるんじゃないかなと。
ある行為をやるコストがゼロに近づけば近づくほど、つまり、めっちゃ気軽にやれる行為であればあるほど、純粋贈与、すなわち愛は生まれやすいんじゃないか。
愛的な行為をやってる人って、自己犠牲の感覚でやってない。他人から見たらすごい献身に見える行為でも、本人にしてみたらコストゼロ、というのが実際のところで。
逆に、もしその行為のコストが激重で、本人が「犠牲を払っている」と感じているなら、絶対どこかで歪みが来る。見返りを求める気持ちが発生するのは、進化する前の猿の頃から変わらない、脳の基本生理なので。あげたら返礼をもらうという互酬性そのものは、悪いことじゃなくてむしろ基本。
その例外があるとしたら、本人が「あげた」とすら思っていない場合。あげる、捨て去るという行為そのものが、その人にとってそれだけで満足である場合。愛は、たぶんそういった形で発生しているんじゃないか。
すなわち、愛とはコスト設計の問題なんです。正確にいうとコスト感覚の問題。
柄谷は、愛、純粋贈与の世界は設計できるものではない、と言っていた。
それがいつ、いかにして来るかはわからない。それは、われわれの意志を越えています
作るものではなく、向こうから来るもの。純粋贈与は設計できない。
でも、行為のコストをゼロに近づけることなら、設計できるんじゃないか。
こうした純粋贈与的な行為って、まあ考えてみるとめちゃ大変で、宗教的修行が必要なイメージある。まあそれはそうだ。見返りのない善意なんて、普通に大変だよ。
そして、修行して悟った状態にならずとも、愛に溢れた人になる方法のひとつが、行為のコストダウン。
とてもプラグマティックな話。
具体的に、行為のコストダウンってなに。たとえば、生成AIを使うこと。笑
生成AIは、生成のコストを限りなくゼロにする。安い。だから、人から見たらすごいアウトカムでも、本人が払ったのはトークン料金くらい、ということが普通に起きる。
もっとも、実際のところは、生成AIばればれの生成物なんて、相手からしたら本当にただの安「っぽい」愛にすぎず、何も響かないというのはある。
が、それはクオリティの問題だ。質の問題。上手く使い、上手く相手が喜ぶものをコストを下げて作ることは間違いなくできる。
そして、そうした行為が世の中に溢れるならば。そのコストも下がり続けるならば、結果、愛溢れる行為が世の中にあふれ、愛ある世界が近づくわけよ。
安っぽい話ですね。
私が以前書いた、「モテたい」という記事に対する、hikaruさんの返信の、さらにyuitangからの返信として書かれた記事の話。
私のバケツは、底ではなく注ぎ口が壊れている。
自分に向けられた好意を、届いた瞬間に無効化してしまう、という話。
読みながら、いやまじでめんどくさくて、yuitangらしくていいなと思ったんですが、好意が受け取れないのって、そこに評価とか、お返しの義務とか、重みが乗っているからじゃないですかね(知らんけど)
生意気な態度でこられるとOKってのは、つまり愛が薄い感じするから、じゃないんだろうか。
重い愛は、受け取った側に負債を発生させる。だから注ぎ口で弾かれる。
その点、純粋贈与的な安い愛は、返さなくていいし、評価ですらないです。
あげた側が「あげた」とすら思ってないので。壊れた注ぎ口でも、これなら通る気がします。なので、安い愛を探して、適当に受け取るといいんじゃないかなと。
というか、受け取ったことすら気づかずない。気づいたらそこにあった愛。(知らんけど)
ところで、安い愛とか、軽い関係性とか言うと、薄っぺらいものの話に聞こえる。
これ、大真面目に、理想的な世界のありかたにつながっている。
柄谷行人の『哲学の起源』という本にあるんですが。
古代ギリシアにおいて、なんとアテネよりも前に、古代イオニアという地域のポリスでは「イソノミア(無支配)」と呼ばれる状態、誰も誰かを支配しない、自由で平等なコミュニティが実現していた、という話です。
なぜそんなことが可能だったか。
イオニアは血縁や伝統から切れたコミュニティで、人々に移動の自由があったからだ、と柄谷は言っています。
気に入らなければ、誰かに従属してまで留まらず、別の都市に移ればいい。
彼はこれを遊動性と呼びます。
立ち去れるから、支配が成立しない。だから平等。平等だから自由なのではなく、自由だから平等。お互いに純粋に見返りなく、関係を作れる。
交換様式Aの根本にある遊動性が高次元で回復されたのである。それが交換様式D
— 柄谷行人『哲学の起源』
柄谷行人は、理想的な、人が自由で平等でいられるユートピア的な世界のことを交換様式Dとよんだ。そして、Dの核にあるのは、出会いと別れの自由です。
いつでも解散できる関係。そう考えると、愛の安さは手抜きの言い訳じゃなくて、条件なんですよ。
重い愛は人を縛る。負債で、恩で、払った犠牲の記憶で、相手の「別れる自由」を少しずつ削っていく。
それはどこかで互酬に堕ちるか、下手をすると支配と保護に堕ちる。安い愛は縛らない。
あげたことすら忘れているので、相手はいつでも立ち去れる。
立ち去れるのに、いる。
その状態でだけ成立している関係が、たぶん一番自由で、一番平等です。
薄暗いバーを使い、ワンナイト・ラブに持ち込むようなモテ方だ。そう、美しくない。そうして、世界はまたひとつ、くだらない場所になる。そんなワンナイト野郎に、僕は憤っている。
「安い愛」と聞いて、貞操観念のない話に聞こえてくるひともいるかもですが。安い愛の代表格みたいな顔をしてる、ワンナイトなモテ。
でも、あれは安い愛ですらないと思う。そもそも愛になってない。
ワンナイトが美しくないのは、安いからじゃないんですよ。あれは贈与のふりをした収奪だからです。相手に向けているようで、見ているのは自分。
突然のブランキー。
自分の中で「モテ」といえばブランキーかミッシェルです(断言)。
淋しさだとか 優しさだとか 温もりだとか言うけれど
そんな言葉に興味はないぜ ただ鉄の塊にまたがって
揺らしてるだけ 自分の命 揺らしてるだけ— BLANKEY JET CITY 「ガソリンの揺れ方」
何も説いてこない。共感も求めてこない。わかってくれ、とすら言ってない。ただ目の前で、勝手に揺れている。
ヤニで潰れてる
喉の奥で
吐き出してたんだ「愛という憎悪」
— THEE MICHELLE GUN ELEPHANT 「スモーキン・ビリー」
愛が、憎悪ですよ、憎悪。
言いたいのはですね、軽薄そうな、ワンナイトしてそうな(偏見)ブランキーやミッシェルは、実のところ、逆だった。あの人たちはたぶん、客席すら見ていなかった。
目の前じゃなくて、もっと遠くか、自分の内側の何かを見て、勝手に燃えて、勝手に溢れていた。こっちに届けようとすらしていない。なのに、溢れたものがこっちに届いていた。
一方、今のロックって、ワンナイトとは無縁そうな雰囲気だけども、どっちかというと、わかるー、共感ーみたいな、だから逆に共感してー、みたいなの多くて、なんか見返りを求めている雰囲気あるじゃないですか(ド偏見)。
なんかふと、90年代のロック全般、思い返してみると、彼らみたいなバンドの曲に「愛」、特にお仕着せの愛について歌われたものはなかったと思う。
どっちが、純粋贈与に近いか。
実際のところ、自分は修行して悟れるタイプではないし、重い愛を背負える人間でもない。背負った瞬間に、たぶんどこかで「こんなにしてやったのに」と言い出すと思います。
だから、自分的には、等身大で語ると、こういった安っぽい話になる、という話でしかないのかもだけど。
でも本当に、「愛」ある世界を目指している。それは本当。
返礼も求めず、トークンを燃やし、文章を生み出し、何かを生み出し、たまたま誰かのところに届いたら、それでいい。届かなくても、まあそれはそれでいい。あげたことすら忘れるくらいの軽さで、何かを少しずつばらまいていく。
そうして、その届いた誰かと、「場所」を作りたい。
重苦しい自己犠牲的なコミュニティではなく、いつでも立ち去れる場所。なのに、なぜかまだいる場所。そしていつでも戻って来れる場所。返礼の義務も、同意の圧も、正しさの査定もない。ただ、それぞれが勝手に燃えて、勝手に溢れたものが、たまに誰かに届いてしまう場所。
たぶん、voundalyでやりたいことも、そういうことなのです。
軽く、安く、雑に、でもなるべく美しく。誰かがいつでも出ていけるまま、それでも少しだけ、ここにいてしまうような、場所をつくる。
冷たいんだか、温かいんだかわからない。愛があるんだか、ないんだかわからない。
でも、愛なんて、そのくらい安っぽいほうがいい。
そんな、安い愛が溢れる世界を作りたい。






愛についての名著、社会心理学者エーリッヒ・フロムの「愛するということ」をぜひ読んでみてください。
損にはなりません。古い本だから、多少のギクシャクが冒頭部分とかに有るかもしれませんが、そこはスルーしてこの本の本質の部分を理解して頂けたら嬉しいです。
1回目はさっと流し読み(ごめんなさい)してたら、ブランキーとミッシェルとブリグリでテンション上がって、ちゃんと2周目に戻って最初から読みました(何の報告)