質問箱の方に面白そうな質問が届いたので、考えてみます。
解説:「Fw」は読者から頂いた質問への回答を意味する接頭語です。A \ Voundalyではメールベースのニュースレターなので、メール用語のメタファーを使ってタイトルを付けることがあります。質問はダイレクトに頂いたもので、それを多くの人に向けて返信し返しているので「Fw」がちょうど良い符号かなと思いました。
(質問)
人々にとっての、書くという行為、読むという行為。そしてこれからのAI時代の中で、現状の出版業界(書店、出版社、著者)がどのような変化を迎えるのか、光さんのお考えを教えてほしいです。
なんか自分でも自分のことを「hikaru」だと思っているので、「光さん」と云われると照れますね。いや、合ってるんですけど。
書籍については、何度か書きませんかと云われてゆるーく企画したこともあって、その度に諦めてるんですが。その時感じたことなぞも含めて、ちょっと考えてみます。
つまらない回答
まず、15秒で考えて出てきそうな答えを書きます。
AIによって、情報摂取としての読書は要約に代替される。ノウハウ系の本など、鮮度が命なタイプの本から順に要らなくなる。読む筋力も世代ごとに衰え、読者人口は縮む。書く側もAIを使うから、本は均質化する。
そうすると、役立つ系の本は、AIが執筆に大きく介在したファストで均質的でコストゼロに近づき、それとは別に、人間がじっくり書いた丁寧で豊かなタイプの書籍に大きく分化していく。小説や思想書、文化系など。
これは衣服業界でファストファッションと、グランメゾンのプレタポルテが市場として分離している状態に近い。前者のウリは頻繁なモデルチェンジ、顧客志向、徹底的な合理化と低コスト、均質性と安心感。ハウツー系の本はこちらの系譜を辿る。
一方で、グランメゾンは「意味と記号」、あとは幾ばくかの品質が価値の中心。要はブランドとロゴ、クリエイティブ・ディレクターの思想など、ハイコンテクストな記号としての耐久財の性質が強い。
こちらは少部数、高単価。本は日用品から嗜好品になる。
ハウツー系の本がファスト・ファッション方面に倒れると、逆に「人間がちゃんと書いた本」と、それを時間を掛けて読むという行為自体がブランド化する。これをグランメゾン本と呼ぼう。これを読む事自体がクールなものとして文化になる、Gucciの大きなロゴが入ったサテンのジャケットを着るかのように。
だから、グランメゾン本はひと目で人間が書いた本であると分かるような装丁、書き出しや、著者の癖となる符号に満ちたものになる。アレッサンドロ・ミケーレが、控えめだったはずのGucciをロゴだらけの若者ブランドに露悪的に変えたように。
発表会の非合理
…っていうのは単線的な論理によりすぎた回答なので、もう少し考えると。
紙の出版物の販売金額は1996年に2.65兆円がピークで、2024年には約1兆円。電子書籍の市場は5,660億円あるが、9割は電子コミック。
一方で、新刊点数は1982年に年3万点→1990年に4万点→1996年に6万点。ここで売上としてはピークアウトしているが、新刊の点数は増え続けて、2005年には8万点を超えている。
新刊当たりの平均売上はどんどん減っているということです。儲かる余地は減っていっているのに、本を出す人は増え続けた。
いまでも、やや減りはしたものの、いまだに年間の新刊の点数は6万5千点前後。
一日あたり、180冊の新刊が出続けている計算。
冷静に考えてこれは多すぎないでしょうか。
僕も一応話をいただいて検討した事がありますが、本を出すというのは割に合わない行為だと思います。相当の労力が掛かるが、これだけ沢山の本がある中、うまく売れるとは限らないし、売れたとしても印税は正直雀の涙。金銭的に直接報われる人は、本当に一握りだと思う。
でも本を書きたい人は星の数ほどいるわけで。これは非合理ですよね。
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僕の解釈――出版とは「発表会」産業なのではないでしょうか。
大学の時、ライブハウスで趣味のバンドのライブを開催したことがあります。チケットはそこまで売れずに、赤字で。
ジャンル問わず、そういう人は多いんじゃないかな?と思います。個展、舞台、コミケ、ピアノ。赤字かはわからないけど、労力と自費を割いて、何かの「発表会」をどこかでやる、わざわざ。
箱代を払ってセッティングの苦労をしてでも、物理的な場所で自分のクリエイションを披露したい、という潜在的な欲望が、人間にはあるんだと思います。そういった場をおくことで、創作を完遂する機会になるという効果もあります。そして、その場はもしかしたら仕事や、思わぬ機会に繋がるかも知れない。
(あのGLAYも、ライブハウスに来たYoshikiが直接声を掛けたらしい。)
そう考えると、本の出版とは発表会の開催にかなり近い。しかも、その場限りでなく、ずっと形に残る発表会になる。これはたまらんですよね。僕も本を書いても良いな、と思えた唯一の理由は、大きくなったらムスメに見せられるなーという、本当にそれだけでした。
だから本質的に、非合理な動機 + 幾ばくかの算段 という、複雑なモチベーションに支えられていると思います。ので、書く人の数はこれからも減らなそう。というか、なんなら増えるかもしれません。
読む側の非合理
では読む側はどうでしょう。
少し古いですが、丸善ジュンク堂が2019年に2,000人に行った調査が面白かったです。回答者のうち、約8割が積ん読(つんどく)をしていて、そのうち2/3が積ん読の冊数は6冊以上だとのこと。
積ん読している理由も結構面白くて、1位は「他に読む本が出来た」で、これはよく分かるけど、「最初から積む前提だった」「買うことで満足した」という回答がそれぞれ全体の1/3ずつ程度いて、積ん読そのものが割と目的として成立しているという印象を持ちます。
昭和の時代にも、売上の高い本のジャンルの一つは「百科事典 全20巻セット」みたいなやつで、1960年代には空前の百科事典ブームで、ひとつのシリーズが数百万セットの単位で売れていたようで、今から考えると信じられない話ですが…これも読むというよりは所有欲の充足や部屋のインテリアの要素が大きかったようです。
読まなくても買う、知識を物理的に所有している感覚を満たしたい、という欲求は根深いのかも知れませんね。僕も積ん読は滅茶苦茶多いですし、大学生の時は理解も出来ないような文学などを買って、2ページくらいだけ読んで部屋の飾り物になっていたりしました。
こちらのブログによると、
積ん読という言葉は明治時代からあって、思ったより歴史ある言葉なんですね。
積ん読(つんどく)は日本語であり、多くの人が思っているよりずっと古い言葉です。最も古い使用例は1879年の明治時代に遡り、風刺作家の森仙三が、本を持っているのに読まない教師について書いた文章の中で使いました。
タレブはウンベルト・エーコの読まれてない本も多く含まれた3万冊の蔵書を指して、積ん読の価値を「アンチ・ライブラリ」と表現したそうですが、いいですね、僕の本棚にはアンチ・ライブラリがあるんだ、って言いたい。
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なので、本の仕事の多くの部分が読まれることでなく、買われるだけで所有者に何かを与えていると言う説はあります。つまり、読むという機能性だけでない価値があるようです。
書く側も読む側も、情報を出す・受ける、という合理的な目的を越えて、書き手は「自分の創作を」、読み手は「知識の象徴を」形ある状態で、物理的に “置いておきたい”という願望に支えられているのが出版・書籍・書店 という見方は一定程度妥当しそうだと思いました。
AIを使えば「読む」は要約なりで代替できるかもしれませんが、「持つ」価値は代替できなそうです。AIを駆使して電子書籍を出しても「発表会」の満足感は十分に得られないでしょう。
書き手の経済学で「注意の貧困」という話をしましたが、そんな世界にあって、本を手元に所有してじっくり読む文化が見直されると良いですね。最近は、僕もむかし買った本をもう一度読み返したり、積ん読していた本に数年ぶりに目がとまってページをめくったりするようになりました。→ 参考
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お便りありがとうございました。
引き続きゆるっと質問・感想を募集しています。



質問者です!
ご考察、ありがとうございました。とても面白く拝読しました。
人々の「書きたい」「所有したい」欲はこれからも残るものの、「読みたい/知りたい」という渇望は薄れていきそうです。
もう、みんな満たされているんでしょうかね。