
miyattiがSubstackを始めて、日々勢い良く文章を書いている。
どれも面白い。先日書いていた、タイムマシーンはこないし、空飛ぶ車もこない1、とても良かった。僕的にグッと来る内容。コンテクストも良い、文体も良い。多分、細かい文体などは気にせずに、書きたい気持ちに任せて粗く書いている。浅井健一が、トレードマークの赤いグレッチを愛用している理由について「グシャッと弾いても音が潰れない」と評していたが、miyattiの文章にそんな感想を持った。思想の骨格がはっきりしているから、衝動でグシャッと書いても内容が全く潰れない。知らんけど。

良かったので、Likeを押す。でも、Likeボタンを1回押しても、+1 Like増えるだけだ。僕の「この記事良いな」っていう、強い気持ち・強い愛は、彼にも周囲にも十分には伝わらないだろう。
近い関係なので直接DMすればいいのだが、いまのところは、伝えてない。なんとなく面倒くさい。そういうことはよくある。
これを逆転させて考えると、僕の文章についても、深く刺さっているにも関わらず、特に反応はしていないだけの人が一定数いるかも知れない。いないかもしれないけど。でも、それは僕からは伺い知れない。Likesはいくつか集まる。しかし、その裏にどれだけの強い愛があるのか(或いは無いのか)を知るのは、難しい。
でも、この世に幾多の「強い愛」が表面化してないだけで、沢山存在しているとしたらどうだろう。それらが表に出てきたら?少なくとも僕は嬉しい。yamottyのZero Topicはもっと続いたかも知れない(参考:創作には窓が必要だ)。小沢健二ももっと曲を書くかも知れない。世界はもっといい場所になるんじゃないだろうか。
a.強い愛を集める
しかし、表面化していなければ、どれだけ強い愛だろうが、こちら側としてはわからない。故に、Like数やPV数など、数値化された単純な情報で物事を判断するようになる。強い愛を直接測る方法はないのか?これは結構難しい問題2で、KPIは強いエンゲージメントの段階ほど直接測るのが難しくなる。計測は「行動」についてのデータを収集して測るしかないが、強い感情の動きはそのまま行動に現れる訳では無い。
多くの消費者は、仮に感情が動いたとしても、せいぜいLikeを押すとか、それくらいの手軽な行動くらいしか取ってくれない。miyattiの記事に対する僕のように3。
データという形で直接測るのではなく、相手に直接、心のうちにある強い愛を集めに行くという解決策もある。それこそ、メルカリではmiyattiと一緒に利用者に直接、意見を聴きに行くことがしばしばあった。強い愛に満ちたコメントを直接肉声でもらえると、サービス運営者としては心が充電される。
問題は、そのプロセスに手間が掛かるし、相手にも負担を強いるということ。データは基本的には自動的に取得出来るものを中心に集めるので、両者にとって面倒が少ない(Likeを送るのは簡単だし、見る側もすぐに見られる)。なので、強い愛を直接集めるというやり方は、いつでも何度でもやれるわけではなく、スケールもしづらいという意味で、普遍性が薄い。
結論1.強い愛を “測る” のは、難しい。
結論2.強い愛を “集める” のは、面倒であり、スケールしない。
b.強い愛に集まってもらう
では、強い愛に「集まってもらう」方法はどうだろう。
コンサートなどは良い例だ。“強い愛×スケール” が実現しているように見える4。何故コンサートで、それが可能なのか?それは参加している全員が、「そこで強い愛を表現していい場所だと知っている」からだろう。
これは一種の儀式的行為と言える。儀式をゲーム理論で考える(マイケル・チェ)によれば、儀式とは「協調問題」を解くために存在するという。協調問題とは、「PCを前に仕事をしている4人が 、示し合わせてチームランチに行くにはどうすればいいか」という状況を考えてもらうれば良い。ランチに行かない?と声をかけて、作業中だと断られたら気まずい、それを想像すると自分からは声を掛けづらい。結果、4人全員がお腹をすかせ、一緒にランチに行きたいにも関わらず、チームランチが実現しない。そういうことはよくある。
ここで、12時のチャイムが鳴ったらどうだろう?それをきっかけに、声を掛けることがしやすくなる。重要なのは「全員が同様にチャイムを聴いている」と、各人がわかっていることだ。それにより、声を掛けて良いだろうという共通認識が形成される。この場合、全員でチャイムを聴く、というのは「一種の儀式」に該当する。
SNSとかでも、多くの人がコメントを付けて、それにちゃんと返答するというループが回っているインフルエンサーは強い。ここは愛を伝えていい場所なんだ、ということが共通認識としてきちんと形成されるからだ。あるファンがコメントを付け、インフルエンサーが返信、そのやり取りをみんなで眺める。これも一連の「儀式」だ。
このやり方は結構良いと思う。なぜなら、強い愛を「待つ」のではなく、強い愛を表現できる場所を設計することで、「集まる」からだ。測る必要も、集めに行く必要もない。場があれば、強い愛がやって来る。
ただ、危うさもある。コンサートやSNSのコメント欄は儀式的である。儀式とは、許可―ここでは盲目的になっていいという―を与える場所でもある。多数の他人といっしょに参加する儀式では、本来よりも愛を過剰に表現したり、批判的思考を喪失したりすることがある。つまり宗教的、盲目的になる危険性がある。愛を集めるために儀式的手法を多用するインフルエンサービジネスやオンラインサロンは時にカルト的になりやすい。
結論3.強い愛に “集まってもらう” は、宗教的な危うさをはらむ。
「強い愛」には世界を良くする可能性がある一方で、見てきた通り、それとの付き合い方は難しいと思える。重要なのは――閉鎖と開放のバランス?私的に集める、クローズすぎる形だと、スケールしない。かと言ってオープンすぎると、宗教化する可能性がある。
だからここでは、その中間を取ることにした。この記事の元の動機は、miyattiへの私的な賛辞だ。だが、そこから発展させ、私的な賛辞を越えてより公共的な内容になり、多数の人に届けられるものになった。DMで直接届けるより少し遠回りになったが、これも醸せカルチャーの一部だとも思う。
僕もCharaが昔から好きだ
別に僕と彼の関係性ならペロッとDMすればいいんだけど。
ロケットマン、ボヘミアン・ラプソディ、エルビス、などの音楽家の映画では、アーティストは大体がコンサートでの圧倒的な多幸感に脳を焼かれ、麻薬に溺れる。


LOVE!!!!
「+1 Likeで足りない」で足りないけれど、どこか通じ合っている…その素地は共に過ごした時間や、それまでの交流に支えられているかもしれないな、そんなふうに思いました。