下記のようなコメントを頂いた。ありがとうございます。
単純な疑問なんですが、昔のnoteの記事よりも意識的に読点(、)を多めに打っていますか?
結論から言うと、読点は意識的に増やしている。
食べ物で例えてみよう。
まず、noteの文章は「完全栄養の流動食」的であろうとしている。
読んだことがある方は分かると思うが、僕のnoteはまず第一に文章が長い。直近でいうと、指標の本質が1.7万文字、アジェンダ・セッティングが1.8万文字ある。これだけ分量が長いのは、多くのことを伝えようとしていること、また、なるべく論理の飛躍無く、順を追って1段ずつ階段を登るように書いているからである。栄養は豊富だが、分量も多い。そのため、完読してもらうためには、摂取スピードと、文節ごとの吸収率をある程度上げてもらう必要がある。
この設計上、一文一文をじっくりゆっくりと味わうようことは、意図していない。そんなことをしたら、途中で疲れ切ってしまう。故に、流動食的に、流れるように読み進められる方が良い。
この場合、読点は少ないほうが良い、と言う気がしている。なぜかはわからない。感覚的なものだ。僕は文章を書くための専門的な訓練などは受けていないので、あまりロジックはない。
一方で、僕のsubstackは「素材のロースト」的であろうしている。
食べやすさなどには気を払わず、素材を生の形に近いまま加熱だけして可食になることを願う。もちろん、珈琲のようにロースト(焙煎)したものそのものが、直接可食にならない食材もあるが。
肉や野菜のローストを想像してもらえればわかるが、ナイフを通して切り分け、時間を掛けて噛み、ゆっくりと味わうものである。この食べ方であれば、読点は多いほうが良い、という気がする。
そんなわけで、substackでは、意図して読点を増やしている。
僕はnoteを書く時、個々の文節の文体や、読点の置き方などは、校正を殆どしない。それよりも、節同士の繋がりの滑らかさ、無理無く論を前進させられているか、といった、全体の流れの滑らかさに最大限の気を払って、校正を掛けている。それが終わる頃にはクタクタで、個々の文に詳細に手を入れる前に、諦めたように公開ボタンを押して、逃げるようにPCを閉じる。
substackでは、文章が短いので、全体の流れは過度に気を払わずとも、そこまで荒れる心配はない。であるからして、noteよりも個々の文や単語の細部に気を遣って書けている。寧ろ、noteでは、自分の文章を見直すのが疎ましくて、校正最低限の「書いて出し」のスタイルだったが、substackでは、時間があれば文章を見直して、細かい修正を重ねてから出すことが多い。
場所が変われば、人も文も変わるものだ。
似たような話だが、soramiから、「読点(、)で終わるタイトルなんなん?」という指摘をもらった。
この2つの記事は、読点(、)で終わるところまで含めて、タイトルとなっている。なんだろう、なんとなく不可思議めいてカッコいいじゃん、という、理由とも言えない理由も、ある。簡単に答えが出ない問題を扱っているので、完結せずに、またいつか続きが書きたい、という意思表明というのもある。
yuがむかし書いていた、「マネジメントに必要なのは胆力や、」のように、読点で終わるタイトルのものが幾つかあって、そこにインスパイアされているような気もしてきた。彼の場合は、文の途中で終わっている、という意図ではなさそうで、句点(。)の代わりに読点(、)を使っているようにも見えるけど。
文章は、自由に書くから楽しい。一方で、ある決まったフォーマットがあるというのも、それはそれで楽しい。「Re:」で始まるタイトルや「、」で終わるタイトルは、今後もこのブログのひとつのお決まりのフォーマットになると思う。
そんなふうに、ちょっとした新しい文化を勝手に作ってローカルに楽しむのも、どこか古いインターネット的ではないだろうか。
📩 他にもこういうフォーマットとかどうか、などのアイディアは歓迎しています 🙏



