物事を単純化してはいけないとは、よく言う。
この複雑で豊かなフリーザという存在を、でも書いた通り、僕たちは、複雑なものを単純化するのが好きだ。A国が悪で、B国が善や、男性とはこういうもので、一方で女性とはこういうもの、と言った具合だ。本来、現実はもっと複雑であるはずなのに。
成田悠輔は「人生を要約してはいけない」と言っていた。
僕も生活をしていて、人はあまりに物事を単純化して考えすぎているきらいがあると思う。世界のすべての問題を自民党の責任にしてみたり、ウォール街の金持ちが世界を動かしていると決めつけてみたり、AIで全ての問題が解決すると言ってみたり。
人は、単純化の誘惑に打ち勝ち、世界の複雑で多様な側面を、学ばなければならないと、心から思っている。しかしながら、ここ2年ほど僕のこの信念は、とある身近な存在によって危機に晒されている。
こどもである。
子育てとは、単純化の物語によって成り立っている。
親の言うことを訊かない→おばけが来る
野菜を食べない→大きくなれない
風呂に入らない→病気になる
と言った具合である。恥ずかしながら僕も、こういった単純化の物語を振りかざして、日々なんとか育児を乗り切っている。こういった親の言動を始め、絵本やアニメなど、こどもは圧倒的に単純化された物語の中で暮らしている。
王子様と結婚すれば幸せ、魔王を倒せば世界は平和、良いおじいさんと悪いおじいさんという二項対立。人類とは幼少期から、単純な物語のサラブレッドとして育成されている。
経済学者(ゲーム理論家)のアリエル・ルービンシュタインが、自身が会長を務める、計量経済学会の会長講演の場で次のような発言をしている。
“I believe that economic theory is a collection of fables. The word ‘fable’ is used here to describe a story that is told in order to convey a message...
私は、経済理論とは寓話の集まりであると信じている。ここで『寓話』という言葉は、何らかのメッセージを伝えるために語られる物語を指す。……
経済理論とは“モデル”である。モデルとは、現実世界を適当な形で簡略化し、単純化したものである。その意味では、絵本(ここでいう寓話)と、役割は変わらない。
絵本から経済学、データ分析、AI、SNSのフォロワー数、文系理系の区分、MBTI、右派左派というラベル、職種や本のタイトルに至るまで、人間の営みの多くが「複雑なものを、どう単純にするか」のための技術を問題にしている。
結局のところ、「複雑な物事を、複雑なまま扱う」というのは、一定以上の同水準の知能の者同士でしか成り立たない贅沢である。世の中には、多様な人間が暮らしていて、その中には当然こどものような存在も含まれる。フリーザのことを、複雑で豊かな存在でなく、「53万のやつ」と単純化して扱うのは、我々人類の宿痾である。
しかし僕は、可能なのであればこどもに、もう少し複雑な因果を持った物語を読み訊かせてみたい。鬼を単に悪者として、すべての課題を鬼に凝縮するのは、不公平であるし、世界の実態と乖離している。
「鬼は人間の街を荒らしましたが、実は鬼の住む島は日照条件が悪く作物が育たなかったのです。過去に、不作から貧困に喘ぐ鬼たちは、彼らの並外れた筋力による労働と引き換えに、人間の街の一部の肥沃な畑を分け与えてもらえないか、懇願をしました。しかし、鬼の姿を畏れた、先々代の奉行は、鬼の言い分を訊かず、次に鬼の島から出てきたら、武力で追い返すと威圧したのです。そういった負の感情の連鎖が、現代の世代まで受け継がれた結果…(中略)、悪いのは、決して鬼ではなく、与えられた地理条件と制度、そして歴史的な経緯の相互作用だったのです。」
こんな物語を、無垢な娘は訊いてくれるだろうか。




Overkill...ずばりな表現ですね。
私(37歳)も不自然な言動をすることが頭をよぎったりしますし、無自覚にやってしまっていないかとゾッとしました。
自然でいたい、というのは共感できます。
ロールモデルとして所ジョージさんやタモリさんが思い浮かびました。
彼らは、うまく言えないけど、変におじさんのフリをしたり、若いフリをしたり、ということが無いように思えます。
ビジネスシーンにおいては複雑な物事を複雑なまま受け取ってもらうために、ダッシュボードなどを通じたインテントで、複雑さを気付いてもらう必要があるんだろうなぁと思うようになってきました。ダッシュボードは乾燥ワカメでありつつも、「鬼が悪い」よりは多面的に情報を渡せるのと、自覚的に気付いてもらうことによる行動変容ができる価値があるんだとヒカルさんの記事を見ながら思案できました😉