はじめましての人は、はじめまして。
hikaruさんに誘われて、soramiさんと一緒に「A Voundaly」で記事を書かせてもらうことになったmiyattiと言います。よろしくお願いします。
株式会社Explazaという生成AI関連事業をやっている会社のCPOをやっています。
今まではこちらのニュースレターで記事書いてました。
今日から、こうなった経緯は今朝のhikaruさんのこちらの記事に。
さて、ということで、どうなるかはさっぱりわからないけど、何か少しでも読んだ人に「なにかひっかかるもの」を感じてもらい、その人の人生において時間差で「役に立つ」、みたいな文章を届けたいなと思ってます。
そんなhikaruさんに、このまえ久しぶりに会った。
きっかけはこちらのSubstackの記事を読んで。
散歩しながら話すような間柄の、友達を増やしたい。
散歩してもいいぞ、という人は、適当に連絡をくれ。— 「居酒屋以外で雑談したいんだ」
なんだ、楽しそうじゃないか。と思って、すぐに会おうとコメント。
残念ながら当日は雨だったので、屋外散歩はできなかったのだけど、集合場所にした高輪ゲートウェイは、屋内散歩も楽しいということで、ふらふらぶらぶら。途中で、近くにいるらしいということで、soramiさんもきてくれて。
で。
彼とは初対面なので、hikaruさんが私のことを紹介してくれたのだけど。そしたら、開口一番「べつにみやっちと仲良いわけじゃないんだけども」みたいなことを、枕詞につけて紹介された。
一瞬、ムッとした。なんやかんや、出会って約10年、仲良くやってきたじゃあないですか。その言い方はなんだ、と、まあ思った気もしたが。
それと同時に、なぜだかしらんが、妙な心地よさも感じた。これはなんの感情だろう?
私は「仲良く」会うというのを、人生において上手くやれてきたタイプではない。
たとえば、人と会ってても、同じ時間で本を読んでいたほうが、わかりやすい発見はあったかもしれない、とか思っちゃったり。
仕事に関係ある本を読んだり、気になっていた論考を読んだりしたほうが、少なくとも「得たもの」は説明しやすい。
あるいは、映画を見るとか、ゲームをするとか、スマホで何か面白いものを見るとかでもいい。そっちのほうが、もっと効率よく「楽しい」を取り出せた可能性はある。
自分にとって、まあそもそも、人に会うというのは、かなり非合理な行為だと思ってたりする。沈黙もある。なんか言われて、ちょっとムカつくときもある。こちらも常にいい感じのことを言えるわけではない。
会話が噛み合っているようで、噛み合っていない時間もある。相手の言葉をちゃんと聞いているつもりで、実は自分の中の別のことを考えていたりもする。なんなら、終わったあとに「で、結局なんだったんだろう」と思うこともある
ただ、最近は、よく人に会うようになった。そういう、なんだったんだろう、が、結構いいかも、と思うようになった。
以前、自分はこんなことを書いた。
腸内環境って多様性が大事とか言われたりするけど、脳内環境もドーパミン一色じゃなくてオキシトシンとかセロトニンとかノルアドレナリンとか様々な味のある幸せにつながる脳内物質で多様な幸せを味わうほうが良いし、死ぬ前に満足感がある幸せは多様な幸せな気はする。
人生を楽にしたいとか、効率よくしたいとか、幸せになりたいとか、もちろんそれは全部あるのだけど、それだけではなく、もっと単純に、人生というものをちゃんと味わいたいのだ、と。
人間は、ひとつの快楽物質だけで生きているわけではない。
ドーパミン的な、達成した、勝った、伸びた、褒められた、みたいな気持ちよさもある。オキシトシン的な、誰かと一緒にいる、安心する、つながっている、みたいな気持ちよさもある。セロトニン的な、落ち着いている、整っている、今日もまあ大丈夫だ、みたいな気持ちよさもある。ノルアドレナリン的な、少し緊張している、危機感がある、集中している、みたいな状態もある。
確かに、ドーパミンだけで生きると、人生はかなりわかりやすくなる。成果を出す。数字を伸ばす。勝つ。これはこれで必要だし、資本主義社会で生きるうえではかなり強い。
でも、それだけだとたぶん、どこかで乾く。逆に、安心やつながりだけでも、たぶん動けなくなる。ずっと落ち着いているだけでも、何かは失われる。緊張もいる。退屈もいる。嫉妬もいる。ちょっとした怒りもいる。
たぶん、人間は本当はそれらすべてを、味わうことで、安定する生き物ではないかと思ってる。
最近の世の中は、感情をかなり「オンデマンド」に取り出せるようになっている。
悲しい気持ちになりたければ、悲しい映画を見ればいい。スカッとしたければ、スカッとするショート動画を見ればいい。怒りたければ、怒れるニュースやXでの誰かの炎上を見ればいい。退屈ならゲームをすればいいし、知的に満たされたいなら本を読めばいい。
もちろんそれはそれで素晴らしい。自分も普通にやっている。ただ、そうやって、自分の意思で取り出す感情は、結局偏る。
でも、人と会うと、そうはいかない。
楽しい、だけではない。少し疲れる。ちょっとムッとする。でも嫌いなわけではない。むしろ、落ち着いた空気に癒されたり。喜怒哀楽、という言葉があるけど、実際の感情はそんなにきれいに四分割されていない。喜びの中に少し怒りが混ざっていたり、怒りの中に照れが混ざっていたり、寂しさの中にうれしさが混ざっていたりする。
そんな、微妙な、明確になる前の感情、情動。人に会うと、そういう感情の混ざりものが発生する。そして、その混ざり物がさらに、味わい深い。
それは、いわば感情のフルコース、というと大袈裟か。
人と会うことの価値は、感情が効率よくその場でわかりやすく取り出せないところにある。そして、あと、時間軸として、ゆっくり時間差で「醸される」のもまた味わい深い。
ここで思い出すのが、hikaruさんがまえに書いていたの話である。
文章を書き、人と関係し合うことで、満足感を得る。その雰囲気を、文化を醸し出して、この場所に充満させる。理想や文句を言葉で語るのではなく、行動で体現することが何より重要だ。
—「醸せカルチャー」
あの記事で言っていた「醸す」という感覚は、かなり大事だ。何かを誰かに押し付けるのではなく、説明するのではなく、行動して感じさせて、いったん置いておく。
そっから多分、時間をかける。いろんなものが混ざって発酵されるのを待つ。
プライベートで、人と会うことも、かなりこれに近い。その場で得られる情報だけを考えるなら、たぶん非効率ですらあるかもしれない。別に毎回、その場で熱く、理想や思想をしっかり役立つ言葉にして建設的な議論を交わすわけではない。
でも、すぐには使えないものが、自分の中でじっくり醸されて、あとからどこかで、出てくることがある。
何ヶ月か後に、仕事で、自分の行動に無意識に影響する。誰かとの関係性の取り方を変えるかも。あるいは、ただ自分の感情の輪郭を少しだけ変えるかもしれない。
ということで、hikaruさんやsoramiさんと会うのは、楽しかった。このあと、自分の中で、この日飛び交った言葉が、感情未満の微妙な空気が、くだらない言葉が、ゆっくり醸されていくのだろう。
「仲良くないし」とか、言われながら、こっちも悪態つきながら、でも、そのあとめちゃくちゃ、いろんな話をして、まぁでも、「楽しかった」。そんなことを言われたことが、そう言われながらもこうやって、いろんな話ができたことが。仲良く、楽しく、建設的に、役立つことを、そして常にポジティブな感じで話さなくてもいいじゃん、って言われたような気がした。
「妙な心地よさも感じた」と冒頭に書いたのだけど、多分、私が人に会うことで求めていることを、前提なしで共有しあえているような、そんな安堵感を得られたのだと思う。
「別に仲良くない」と言っちゃえる、久しぶりにあっても、こないだぶりでも、テンション高くも低くもなく、たわいのない雑談をできる人と、思いつきで会ってみる。誘われたらのってみる、誘われないなら、こちらから誘ってみる。
これは、もし以前の私のように、人に会うのがめんどくさいな、と思っている人がいるとしたら、もしくは、会うならば、しっかりと目的をもって、と身構えてる人がいるのならば。
「仲良い」わけじゃない、と、正直に言い合える人と会う。
一つの人生の味わい方としておすすめしたい。
そんな三人で、色々話した結果、一緒にSubstackやってみようぜ、となったわけでした。一人では味わえない、どんな醸しができるのか楽しみです。
早く行きたければ一人で行け、遠くへ行きたければみんなで行け。
— 「大事なお知らせ―Be Fun!」
よろしくお願いします。






感情のフルコース、オンデマンドしない時間。
ほんとにそうですね。我慢の時もあるけど、時間差でよかったと思うことは確かにあります。
今も役には立ってないけれど、大学の頃に友人とカラオケに行った時間をふと思い出しました。
1日に目に入る大量の情報のなかで1番見たくてみてます