先週、北海道や四国で暮らした経験を踏まえ、自然と崇高について書いた。東京はクリーンでスマートで、快適だ。しかし私たちの内には、管理できない圧倒的な力への崇高な気持ちを求めるところが依然としてあると思う。そんな都会で植物という生命に触れることは幾ばくかの慰みになる、というようなことを述べた。
それに対して hikaru さんが返信記事を書いていた。その末尾には miyatti さんからの返信を求める旨が述べられていたが、私からもそれとは別に少し書いてみたい。
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彼の記事では、最も身近な、思う通りにいかない存在として「子ども」が挙げられていた。実際に子育てを経験した人は大いに同意するだろう。
それは都会人にとって初めて直面する自然と言える。同様のことを養老孟司が言っているそうだ。
都会人にとっては、幼児期とは「やむを得ないもの」です。はっきり言えば、必要悪になっています。子どもがいきなり大人になれるわけがない。でも、いきなり大人になってくれたら便利だろう。都会の親は、どこかでそう思っているふしがある。
ところが田畑を耕して、種を蒔いている田舎の生活から考えたら、子どもがいるというのは、あまりにも当たり前のことです。人間の種を蒔いて、ちゃんと世話して育てる。育つまで「手入れ」をする。稲やキュウリと同じで、それで当たり前です。そういう社会では、子育てと仕事との間に原理的な矛盾がないわけです。具体的にやることも同じです。「ああすれば、こうなる」ではなく、あくまで「手入れ」です。
「子どものいない社会」が理想になっている…養老孟司「日本の少子化が止まらない本当の理由」 「いきなり大人になってくれたら便利だろう」と思っている | PRESIDENT Online
では、子どもと大人の違いとはなんなのだろうか。
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1976年、心理学者ジュリアン・ジェインズは『神々の沈黙』において、意識の誕生にまつわる大胆な仮説を提唱した。
古代人は、現代人のような統一的な自己意識を持たず、脳内に響く「声」を神の命令として受け取り、それに従って行動していた、というものだ。ジェインズはこの状態を「二分心(Bicameral Mind)」と呼んだ。
そして約3000年前、社会の複雑化や文字の誕生を機に、その「声」は沈黙し、現代人が持つような内省的な意識が生まれたのだという。
ジェインズはこの仮説の論拠として、ホメロスの二大叙事詩を対比する。『イリアス』の英雄たちは内省せず、すべて神の命に従って動く。より後期の作品とされる『オデュッセイア』の主人公は、自ら策略を練り、迷い、決断する。
この説には学術的な批判も多いそうだ。しかし、意識を生物学的な所与ではなく、文化的・言語的な構築物として捉える発想は示唆に富む。
この枠組みで見れば、子どもとは、神々がまだ沈黙していない状態だと言える。
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しかし、大人になった私たちとて、本当に自らの内面をコントロールできているのだろうか。
仏教における瞑想実践のひとつに、ヴィパッサナーがある。その一部はマインドフルネスとして再構成され、医療や企業研修の文脈でも知られるようになった。
その入り口として位置づけられるのが、アーナパーナ(数息観)という呼吸の観察だ。呼吸をコントロールするのではなく、吸う息と吐く息へ意識を向けるだけ。極めてシンプルだが、やってみると、最初は本当に笑ってしまうくらいうまくできない。呼吸を10回数えることすら容易ではない。意識はすぐに逸れ、昨日の晩御飯、むかし言われた嫌なこと、未来への不安など、ありとあらゆる思いが際限なく湧き上がってくる。それらは自分が考えようとして考えるのではなく、どこからともなく現れる。
この現実に気づくと、日常のあらゆる思考や判断もまた、どれほど自分の意志によるものか疑わしくなってくる。「自分でこう決めた」と思っていても、その背後にどれほどの自由があるのかは定かではない。
ヴィパッサナーが目指すのは、こうした思いの濁流を直接堰き止めることではない。ありのままの現実を受け入れ、反応せずに観察すること。それによって、思いに振り回される状態から少しずつ距離を置けるようになることだ。
瞑想をしたからといって、人生がうまく行くわけではない。しかし、うまくいかなくても大丈夫になる、そういう類の技法である。
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人間の内面がそうであるように、私たちの外側にある世界もまた、私たちが管理できる類のものではない。
例えば、農業は人間の代表的な営みだが、私たちが関与できている領域はごく一部に過ぎない。自然の力を借り、うまくその営みに乗り、恵みを拝借しているだけだ。
SF作家スタニスワフ・レムが、面白いことを書いている。
曰く、私たちは「蟻塚 🐜」を見て「自然が生み出した興味深い構造物」だと思う。一方、自分たちが作った「都市 🏙️」は「人工物」だと考える。
しかし、もし高度な文明を持つ宇宙人が地球に到来して、
人類のつくった都市を見たならば、
彼らは、我々が蟻塚を見て感じるように、
それを、地球上に芽生えた生命がつくりだした物であり、
自然の営みがつくった構造物であると感じるかもしれません。
これが、スタニスワフ・レムのイマジネーションです。そして、このイマジネーションは、
かつて、ノーベル賞科学者、イリヤ・プリゴジンが語った、
次の言葉を思い出させます。我々は、自然から分かれて、
なおかつ自然の一部である。
結局のところ、私たちはこの現実世界の物理法則の中に存在させられているに過ぎない。SF小説『三体』が描くような、その法則自体を再構築するレベルにまで達すれば話は別だが、もしそこに至るとしてもそれはずいぶん先のことになるだろう。
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近年のAIは、人間の能力をはるかに超えて機能し始めている。それもまた、この世界の物理法則の中に生まれた自然だ。
そのとき、私たちがAIに向ける態度は、農業のそれに近いものになっていくのかもしれない。手入れをし、うまくその営みに乗り、恵みを拝借する。
古代インドのサンスクリット語やパーリ語で、瞑想は「バーヴァナー(bhavana)」と呼ばれる。この語には「耕す・育む」という意味合いがあるそうだ。
ラテン語の「colere(耕す、世話をする)」から、「culture(文化)」という言葉が派生したことも思い出す。
人間というちっぽけな存在が、崇高なる自然と向き合う。そのときの態度が、これらの言葉に表されているように思える。



