浅岡と久しぶりに会った。
2年前にムスメを抱いて彼の会社の車が並ぶガレージを訪れて以来か1。なんというか、相変わらずだった。浅岡はいつだって浅岡でしかなく、それがまた彼らしい。
本人も言っていたが、僕と彼は人間として真逆である。陽キャでコミュ力お化けで、常に他人といる浅岡。陰キャでコミュ障で、一人が好きな僕。フィジカルで元ボクシング部で体育会系な浅岡、文化系で不健康調な僕。多趣味でアクティブな浅岡、無趣味で文章ばっかり書いている僕。彼は車が大好きで、クラシックカーの事業で起業しているが、僕は日本人男性の中で一番クルマに興味がない。
一度、彼の住む街に妻と遊びに行ったが、次から次へと彼の友達が押し寄せてきて、楽しかったものの、とんでもなく疲弊した。帰りの電車で妻と、楽しかったけど来るのは2年に一回くらいでもいいね、と笑いながら話した。
だが、気が合わないかと云うとそうでもないから不思議だ。今回の訪問は、彼の会社のPodcasthへの出演が趣旨だったのが、結局ふたりで2時間ほどぶっ通しで喋った。
驚いたことに、そんな彼は最近Substackを書いているらしい。あの浅岡が。テーマは「余白時間」。よければ興味がある方はフォローしてあげて下さい。
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収録で話したのは、公共と個人主義、おせっかいとハラスメントの境目、浅岡の余白美学、コミュ力、合理化されておかしくなっていく世界、甲本ヒロトについて、浅岡が文章を書き始めて変わったこと、僕が何故Substackを書くのか、等々。彼と僕はかなり性格が違うので、同じ事象でも真反対の角度から眺めていたり、実は意外に同じことを思っていたり、そのコントラストがまた面白い。
バーリンの自由、柄谷の交換様式
僕たちはまさに、アイザイア・バーリンの云う積極的自由と消極的自由の関係だ。
浅岡はみんなを文化祭に巻き込むという「積極的自由」を行使したいタイプ。その方が楽しいから。彼は「誰とでも友だちになりたい」と本気で云っていて、僕からすれば深刻に意味不明である。僕は文化祭をサボりたいという「消極的自由」を主張したいタイプ。その方が楽だから。帰って本が読みたい2。
ちょうどmiyattiが書いていたように、柄谷行人の交換様式で考えてみてもよい。
浅岡は明確に「A:互酬」の様式の中で生きている。喜んで他の家のこどもを預かる。地元の助け合い、持ちつ持たれつを大事にしている。そして、元ボクシング日本チャンピオンでもあるので、その腕力を活かして「B:略取」の様式を発動することも可能だ。そう云ったら、そんなことはしないと笑っていたが、腕の太さは本物だ。
僕は、互酬も略取も才能がないので、「C:貨幣と商品交換」の様式に縋ることでなんとか生きている。資本主義への愛憎でも書いたが、生まれたのが現代社会でなかったら、最低限の貨幣を稼ぐ場をたまたま見つけられなかったら、僕は気が狂って死んでいたのではないかという気がする。
浅岡はA(+Bが可能)で、僕はC。
Dはmiyattiも書いた通り、この世界に現存しているものではない。
しかし、「交換様式D」は、設計できる理想社会ではない、と彼は言う。みんなで正しく助け合いましょう、という道徳でもない。地域共同体を再生しましょう、という行政スローガンでもない。
じゃあどうすればいいんだ?
「それがいつ、いかにして来るかはわからない。それは、われわれの意志を越えています」
Dの一族
どう考えても、僕と浅岡は思想上は対極の場所に場所にプロットされる。僕らの考えは対立し、平行線で終わるしかないはずだ。でも、僕たちは楽しく2時間喋った。僕は浅岡のことが好きだ。彼も僕のことが大好きだろう。これは何なのだろう。
浅岡はみんなで文化祭の準備がしたい。僕はサボって帰りたい。
甲本ヒロトが言っていた「楽と楽しいは逆だ」という話と重なる(参考:Be Fun!)。浅岡は本当に純粋にただ、“みんなと楽しいことがしたい” のだと思う。まさに、「1000のバイオリン(The Blue Hearts)」の歌詞みたいな奴だ。でも、彼といると彼が混じりっけなしにそう思っているのが何故かよく伝わってくる。
彼は外から眺めれば、コミュニティ主義者に見える。でも、違う。
彼は「俺達」と「その外部」を作ろうとしない。誰でも区別をしない。本気で全人類と仲良くなって遊びたいと思っているのかもしれない。イカれてる。そして、「みんなでなんかやったほうが楽しいじゃん」と思っているのに、相手を無視してそれを押し付けることはしない。ちゃんと留保する。相手を理解したいと思っている。かなりの特殊性癖だと思う。
彼はそれを「交換様式D」という。「純粋贈与」ともいう。
それは、単なる優しさではない。親切でも、助け合いでも、地域のつながりでもない。「互酬」「服従と保護」「商品交換」だけで閉じてしまう世界に、別の穴を開けるものなのだと思う。
返してもらうためではなく、与える。従わせるためではなく、与える。
――夜のバスとはんぶんこ(miyatti)
「A:互酬」の交換様式にいるが、拘束性を持たず、むしろ開放性を志向する――まさに彼は「交換様式D」的な存在かも知れない。それも自然体で。多分、血筋が「Dの一族」なんじゃないか3。
一方で、僕は資本主義渦巻く、C:貨幣と商品 の世界に長く居た。でも、それは限界なんじゃないかと思っている。だから、こんなニュースレターを始め、非合理や、主観や、公共や、楽しさや、自然や、正しさや生産性じゃないもの、美しさ、友人などについて日々書いている。本当はひとりで居たくて、楽がしたくて、効率で考えたくて、自由でいたくて、制御したいのに――そんな矛盾を抱えながら。
僕は「C:貨幣と商品」の世界から「交換様式D」に至りたいんだと思う。
僕も浅岡も、持っているものも性格も全く違うが、見たいものは同じなのかも知れない。彼には、無尽蔵の楽しさと他者を想う気持ちが、僕にはスケーラビリティと自由の特性がある。そのどちらも諦めず、無理なく一緒になれないだろうか――。
真逆なはずの僕たちふたりが、深く考えずとも、何故か仲良くやれる。これはいまの世界にとって小さな希望なんじゃないか、と思うのは大袈裟すぎるだろうか。
…
浅岡と会った帰りの電車の中で、唐突にある唄を思い出した。高校生の時によく聴いていた、もう20年以上聴いていなかった曲。
参考書よりも正しく 漫画本よりも楽しい
そんなLaLaLa そんなLaLaLa 探してる 探してく―― ラララ(Mr. Children)
僕は参考書的な人間だが、浅岡は漫画本みたいな奴だ。
ちゃんと正しく、でも途方もなく楽しい―そんな何かを、僕らはきっと探している。
実は彼の性格は全てが天性ではない。興味があるひとはPodcastを聴いてもらえる。












大好きなことがとても伝わってきます。
Dの一族。
明るく接してくれてナチュラルにギブしてくれる人っていたりしますが、そんなものじゃなさそうですね。
miyattiさんのお話読んだばかりなので嬉くなりました。これはRe:の違う形になるでしょうか。
今日もありがとうございます。