FREE AGENDAというポッドキャストを長らくやっている。
もう6年かー。友人のyamottyと月に1度、とりあえず録音ボタンを押し、後は好きに適当に喋る、以上。友人同士のただの会話がコンセプトで、準備も筋書きもない。編集は有志のメンバーがやってくれている。僕らはただ喋るだけ。コストはほぼゼロ。
恐ろしいもので、FREE AGENDAについてyamottyは「モチベーションは昔からほぼ変わってない、というか(モチベーションは)無い」と言い切っていた。こいつ公共の電波で凄いこと云うナァと思いつつも、だからこそ続いているのも事実だろう。
Free Agendaには目的がない。だから、いつ辞めていいし、辞めなくてもいい。止めたいときにはいつでも止めるし、Vibesがあるときだけ収録したりだべったりしている。目標も期待も締め切りもない。それが、なぜかたくさんの人に聞かれている。それ自体がありがたく、実は貴重な活動なのでは?と思うようになりました。
―― 一人Podcastは続かない(yamotty,)
そんな感じで超絶省エネ低空飛行のポッドキャストなわけなんだけど、それでも聴いてくれる人が結構いる。
面白いと言ってくれる。街中で、聴いてますと何度も声を掛けられた。「あのエピソードに救われました」と言われたこともある。有難いことです。でも、そう言われるたびに、少し戸惑う。ただ二人で好きに喋っているだけなのに。
安い愛
miyatti が「安い愛の話」という記事を書いていた。「純粋贈与」はコスト感覚がゼロに近い状態で成立する。あげたことすら忘れるくらい軽いものだから、返礼を求めずに済む。軽い愛を、たくさん振りまくべきだ、と。
私は思うんです。「重さ」ではなく「軽さ」。
つまり、「安さ」こそが愛につながるんじゃないかなと。ある行為をやるコストがゼロに近づけば近づくほど、つまり、めっちゃ気軽にやれる行為であればあるほど、純粋贈与、すなわち愛は生まれやすいんじゃないか。
―― 安い愛の話
なるほど。
読みながら、FREE AGENDAは、これに近いのかもしれない、と思った。僕らも軽い愛、安い愛を振りまいている。自分たちには誰かに何かを与えている自覚もない。コストもほぼゼロ。ただ、偶然聞いた人が運よく何かを受け取ってくれただけ。
ありふれたものを世に放てるか?
これは、単純に人ごとの差異の問題だと思う。
繰り返すが、僕たちはポッドキャストだからと何か特別なことを喋っているわけではない。普段の二人のおしゃべりの延長。でも、聴いてくれる人にとっては価値がある。それは、考え方、人生のフェーズ、能力の尖り具合等々が違うから。
自分にとってありふれた思考でも、他人にとっては価値があることがある。僕がいらなくなったものでも、メルカリで誰かが高値で買っていくのと同じだ。
いまメルカリで売ろうとしている服は、かつての自分が愛してやまなかった、生活の一部だったものであったりするはずだ。
物の価値の参照点は、必ずしも「今の自分」だけではない。過去の自分や、世界の自分とは違う地点にいる誰か、そういった人たちが価値を掬い取ってくれることを信じて、古ぼけた思考を世に放つべきなのだ。
―― 思考のメルカリ(hikaru)
自分にとってありふれたものを、わざわざ世界に放つ。これは大事な所作だと思う。メルカリはこの行為を大きなマーケットに変えることに成功した。
僕は、苦手だ。
何か話すときでも、既に何処かでその考えを世に出したことがないか、が気になる。自分の考えをドヤ顔で話した時に、あ、それこの前 Podcast で喋ってたやつですよね、noteで書いてたとあれですよね、などと言われると、顔が真っ赤になる。同じ話を繰り返すのは、なんかダサい。だから保険をかけて、自分の中でありふれてしまった考えは、喋るのを極力控えるにようにしていた。
でもあるときこの話をしたら、
大橋の小さな和食屋で日本酒を片手に、いーずみにこう言われた。
名もなき詩をCDで聴いてる人が、ライブで名もなき詩のイントロ流れたらテンション上がるでしょ。これCDと同じ歌詞だ、つまんな。ってなると思います?
むう、それは確かに1。
いい話は何度してもいいし、
それを目の前で言ってくれるなら、もっと刺さる。
なるほど、
そうかもしれない。僕はこれは至言だと思った。
自分のありふれた考えを繰り返し使って、他の人を感嘆させる。それは、何かアービトラージというか、ズルをして儲けているようでちょっと後ろめたい気持ちになる。でも、それはそれで別に良いようだ。それから、あまり気にしないようになった。
マザー・テレサの鉞
でもこれが純粋贈与の話なのか?よくわからない。こどもの頃読んだ、マザー・テレサの絵本に出てきたエピソードを唐突に思い出した。
テレサの話を聴きに多くの人が集まる。講演後、ある富裕者がテレサに寄付を申し出るが、彼女はそれを断る。次に、子どもが来て、寒い中自分の着ている上着を差し出し「これを恵まれない人に渡してほしい」と言う。
彼女はそれを受け取る。そして、訝しむ富裕者に向かって云う――私は自分の痛みを伴ってでも分かち合ってくれる人の気持ちを喜んで受け取ります。でも、溢れた豊かさのおこぼれをもらう気はありません。
なかなかに強烈な鉞(まさかり)だ。
子どもながらに、衝撃だった。
でもテレサの話を考えるに、miyatti の言う軽い愛、それは余裕がある人間の余剰を振りまくだけの話ではないか?
僕らのポッドキャストに人気があるのは、僕とyamottyがたまたま持っているものが、世に対する非対称な価値を持っているからだ。経験・言語化能力・職歴・独特な価値観。ビジネス文脈にTAMが大きいこと。それらが時代の価値観にたまたマッチしていた。価値観の富裕層だ。価値の非対称性を貯め込んだ一部の人間だけが、特権的に純粋贈与の立場に立てる。そういう論にも聴こえてしまわないか?
価値のメルカリ
うーんでも、この考えがそもそも、世界の単一な価値観を前提していて、そのことに自体に問題がある気もする。
自分で言うのもごにょごにょだが、僕とyamottyが世間に対して持っている価値の非対称性は、わかりやすい種類のものだとは思う。強い言語化、目立つキャリア、21世紀的なITのビジネス経験。まあ世間的には、それなりにニーズのある尖り方ではあるのだろう。
でも、「価値の非対称性」は、価値観の幅の広さに寄っていくらでも増えうる。障害を持って生きている人にしか見えないもの。こどもしか気づかないもの。貧しい暮らしの中でしか磨かれない感覚。長く病気をした人にだけわかること。地方に住んでいる人にだけ見える景色。
誰もが同じように、他人にはないちょっと特殊な「あたりまえ」を持っている。誰もが安い愛の在庫を持っている。でも、それをありがたがる人がいるかは、社会の価値観が規定してしまう。社会の価値観が一律になるほど、振りまく価値のある「安い愛」の種類は限定されていく。
だから…ありとあらゆる人が持っている価値の非対称性が、同じように誰かにとって意味を持つ、そういう意味での価値観の多様な世界が純粋贈与の実現のための前提になるのだろうか。誰もが、軽い愛の贈与者になれる。マザー・テレサの前で、貧しい子どもが上着を差し出した。あの構図が、普通のことになる。そんな世界が要る…
そういうこと?僕にはわからないよパトラッシュ。
それでも贈与は突然に
でも、勝手にやっていることを、勝手に相手が受け取っていて、勝手に救われているという構図の美しさは、わからんでもない。
なんかふと、90年代のロック全般、思い返してみると、彼らみたいなバンドの曲に「愛」、特にお仕着せの愛について歌われたものはなかったと思う。
―― 安い愛の話
miyattiがミッシェル好きなのは知らなかったが、チバユウスケも「作者の本意なんてわからなくて、聴いて勝手に勇気をもらったり、勝手に悲しんだり喜んだりできるのが音楽」と云っていた。Coccoは自分のために排泄するかのように曲を作っていると云っていた。浅井健一も佐藤伸治も、自分の歌詞の意味について一切語らなかった。化物語で忍野メメも良く「僕は助けない。君が勝手に助かるだけさ」と云っていた。そういうことだろうか。
うーん、なんつーか、僕はまだその域ではない気もする。
FREE AGENDAは楽しい。純粋贈与的な安い愛かもしれない。 でもいまは、毎日手間ひまかけてやってるA \ Voundalyの方が価値があると思っているし、読者がどう思って読んでいるか、ちゃんと気になっている。世にパッと放ってハイおしまい、あれ、価値ありました?へーそうなんですか、という境地ではない。
自分が意図を持ってやっていることが、その意図通りに価値を届けられる。そうあってほしいと、ついつい思ってしまう。
でも、期せずしてそんな傲慢は打ち砕かれる。
ちょうどこ文を書いていた最中に、こんな事があった。
ある読者の方が、こんなメールをくれたのだ。
(前略)…
いただいた絵、とても嬉しいです。Hikaruさんのお嬢様への深い愛情と慈しみが伝わってきて、胸がいっぱいになりました。焼き鳥もチキンナゲットも、カワウソちゃんも可愛らしいですね。夕暮れの遊園地、みんなが笑顔で幸せそうで、胸がほっこりしました。わたしにとっても、この絵は宝物となりました。本当にありがとうございます。
…
(御本人に許可を頂いて載せています)
Substackには他の読者を紹介をしてくれた人向けに特典メールを送る機能があり、「絵」というのは、その特典として僕が付けたものだ。ムスメと笑いながら作った、僕にとっては宝物のような絵。この頃は、カワウソとジェットコースターに乗るのが彼女の夢だったのだ。制作コストは、生成AIでほぼゼロだったけど。
思わぬメールだった。
正直、この特典メールのことはすっかり忘れていた2。コストゼロの絵、忘れていた特典。安い愛。僕には何の意図もない。でも、確かに相手は何かを受け取ってくれていた3。
そして、実は僕も大きなものを受け取った。嬉しかったのもある。何より「贈与とは思いもしないところでいつの間にか起きているもの」それを改めて思い知った。何かが溶けて、楽になった感じ。僕がこれだけ感じ入っていることも、メールを送ってくれた御本人からは想定外だろう。元の記事を書いたmiyattiもそうかも知れない、僕があの記事を読んで、必死にアタマを捻っていることを彼は気づいていただろうか。
意図したもの、拵えたものではない。思わぬ贈与、お互いに投げ合う安い愛。
—
結局、誰が何から何を受け取るかというのは、誰にもわからない。意図できない、設計できない、思い通りにならない、押し付けられない。寧ろ、狙ったとおりに相手が感動したら、何も面白くないんじゃないだろうか。
…わからない。
何も意図せずに、ただ自分が楽しい、正しい、良いことだと思うことを続けていくくらいしかないのではという気もしてくる。きっとそうだ。
神の手の中にあるのなら その時々にできることは
宇宙の中で良いことを決意するくらいだろう無限の海は広く深く でもそれほどの怖さはない
宇宙の中で良いことを決意する時に――流動体について(小沢健二)
ここにもう載せちゃうから、特典内容変えないと..
このメールに返信し、少しやり取りをさせていただいた。







FREE AGENDAでhikaruさんyamottyさんがやってるように「見返りを求めずに出来て人から価値を認められるもの」、それをを才能と定義します、という話をある別のポッドキャストで聞いたことがあります。ただその才能というのも発動条件がある、と。そのうちの一つが環境で、環境というのはたまたま性とか当座の自然、パックスロマーナみたいな感じもあります。たまたま、とか今だけなのかもしれないけど、なんかずっと続くはず、続いてくれるといいなと勝手に思いながら勝手に受け取っています。
私は、「もてるものをもつ人の施し」もmiyattiさんの書いていた「安い愛」に入りうると解釈します😊
もてるものを出す際にどれだけのエネルギーをかけてるか、かけていないのか。その人がそのことをなんでもないと言えるほど見返りを期待してないと断言できるほど「コスト」をかけていないことがポイントかなと。そこ(行動)に「誰かの役に立てばいいな」とか、「この方が相手(あるいは不特定の誰か)の気分が良くなるんじゃないかな」などの気持ちがほんのちょっと(この度合いも安さという言葉にかかるのかなと)動機としてあれば十分なのかなあと。「楽しんでくれたらいいな」も入りますかね。
長文失礼しました〜☺️