Re: “当たり前”を変えていけ
芸人の飲み会・印象派・アントワープ、或いは僕らのハビトゥス
5月だ。気持ちいい気温だったので、久しぶりにsoramiと会って、目黒川沿いを延々と散歩した。デカいスタバから大崎ゲートシティの辺りまで、地図で見ると、片道で5.4kmになるらしい。なかなかの良い運動だ。
彼と僕が合うと、ほぼ途切れることなく、休み無く、ただ話し続ける。
道中で、コロコロと話題を変えながら色々と話しすぎたせいで、どういったトピックがあったか、今ひとつ判然としない。印象的な会話を一つ取り上げるとすれば、五反田駅を通過した辺りで「凄いヤツ同士が集まって一緒にいることで、一人ではできなかったことが出来る」という話。僕がちょうど、“当たり前”を変えていけ を配信した翌日だったことから、出た話題だ。soramiは以前から、そういった趣旨のことをちょくちょく云う。
上述のブログを書いた通りで、その気持ちは、僕もよくよく分かる。
漫画家で言えば手塚治虫・赤塚不二夫・藤子不二雄・石ノ森章太郎、などの一時代を築いた作家たちがトキワ荘というアパートに同居していたのは有名な話だ。
お笑いコンビの鬼越トマホークは一度解散して、夜の街でバイトをして生活費を稼いでいた。そこから再結成して芸人の世界に戻ってきた理由は「普通の世界の飲み会がつまらなかった」からだと語っていた。芸人同士が集まって行う飲み会があまりに楽しく、一度それに慣れてしまうと脳が焼かれてしまうのだという。全員が常に、面白い話をしようと日常からネタを蓄積し、抜群のアドリブ力とツッコミ力を発揮しながら、ネタ話を肴に飲むのだから、普通の飲み会とはレベルが全く違うだろう。
批評家の浅田彰と柄谷行人は、共同編集者として「現代批評」を刊行していたという。あれだけの知性同士がぶつかって高め合えば、その相互の刺激と高め合いは、常人には到底理解できない水準のものであっただろう。
19世紀のパリで、マネ、モネ、ルノワール、ドガといった面々が集まり、印象派の一群を育んだカフェ・ゲルボワ。マンハッタン計画に集った物理学者たち(映画 オッペンハイマーは面白かった)、裏原宿のファッション・シーン、ハーバーマスが指摘した政治言論空間としてのコーヒーハウス、
あるいは、ラグジュアリーのトップ・デザイナーを輩出するアントワープ。マルジェラ、ノッテン、ラフ・シモンズが有名だが、調べるとクリス・ヴァン・アッシュ、デムナ・ヴァザリアなどもそうだという。型破りなデザイナーばかりだ。
日本人の中でも世界クラスの経済学者の話を読んでいると、彼らを取り巻く環境に圧倒される。スタンフォードやシカゴ大学に在籍した宇沢弘文の伝記では、アローやクルーグマン、ソロー、スティグリッツ、アカロフ、アマルティア・センなどの名が、同僚や友人や門下生の名として当然のように出てくる。青木昌彦はスタンフォード大学で制度経済学の新分野を立ち上げるが、その創設の同僚として、ミログラムやグライフなどの名がサラッと挙がる。
ここで出した名前は全員、ノーベル経済学賞の伝説級の学者たちで、初学者の僕でさえ当然のように知っている。そんな面々が隣りにいる―それが彼らにとって、当然のことであろうから、ため息しか出ない。
これらの場所では、全て、「当たり前」のレベルが全く違うのだろう。
ブルデューがディスタンクシオンで描いた「ハビトゥス」に近い話かもしれない。ハビトゥス(habitus)とは、内面化された、価値体系・評価基準・行動原理のようなものと考えられる。
特定の習慣(habit)そのものではなく、「習慣を生み出すOS」がハビトゥスだ。人は自身のOSによって日々の行動(進路、振る舞い、消費、交友関係等)を選択し、結果として、内面化している価値観・評価基準が、再帰的に強化される。つまり、当たり前の水準がどんどんと高まり、内面に定着していく。
ブルデューは、文化資本=学歴、教養、マナーetc.がハビトゥスによって「階級」を再生成し、社会的地位を固定化する仕組みを描いた。
文化と教養のハビトゥスを持っている人間は、ごく当然に美術館や観劇や読書に親しみ、より文化資本を蓄積する。その逆の人間は、わざわざ観劇に金を払わず、たまに美術館に行ってもぎこちない、というわけだ。そうして、生まれつきのブルジョワが、文化を独占する。ただ、引いた目で見れば、文化資本とは、既存の世界を解釈・適応するための能力という資本にも見える。
一方で、“当たり前”を変えていけで挙げたスタートアップ環境を含め、この記事でここまで挙げてきた各種の環境が形成しているもの、それとは違うように映る。それは、「思考し、現状を疑い、置換する能力」という資本ではないだろうか?
つまり、そこで獲得されるのは「思考と変革のハビトゥス」である。
今の時代に、これは何よりも求められる資本だったりしないだろうか。
もうひとつだけ付け加えるなら、同じようにもがき、葛藤する同士の存在は、何物にも代えがたい支えとなる。友人がやっていなければ、私もこうやって書き始めることはなかった。
――目と手の隔たり
soramiも書くことには多少悩んでいるようだが、互いを意識することで、僕たちは新しくより強い「思考のハビトゥス」を獲得していけるはずだ。それがこの世で、自分とは違う他者と場所や時間や考えを共有する、一つの大きな意味だろう。
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※1 やや蛇足だが、タイトルについて。
この記事は、“当たり前”を変えていけ の派生記事であるのだが、こういった場合にどういったタイトルをつけるのかを悩んだ。以前の例としては、ワニの話に対して、ワニの話の別のはなしといった題をつけるなどをした。しかし、これは読者の多くがメール配信によるニュースレター形式であることから、「Re:」という形で、以前の記事のアンサーであるといった体を取るのはどうか、と思った。メールでもスレッド制が普及した2026年に「Re:」というメールを受け取ることも、あまりない。だからこそ、面白いのではないかと思ったりするのだが、どうだろう。
※2 更に蛇足だが、soramiと道中でした会話は思い出せる限り、
音大の近くは防音のマンションが多い、ローファームでのLWBはパートナーのタイプ次第、米国では知的層でのSubstackの経済圏が確立している、ノア・スミス、こども等の命名の難しさ、Forward Deployment Engineer、IT業界の鬼越トマホーク、自分の得意分野は自分ではわからない、Palantirのアレックス・カープ、日本には哲学的なリーダーがいない、小籔が薦める中目黒の有名ピザ屋、ザブングルの加藤とよゐこの濱口、賢さとバランスが良さ、或いは物理学を一周して残りの人生が消化試合になってしまった友人の話、など。ほかにどんな話題があっただろうか。

