むかしyuiちゃんと話していて、「お洒落」の話になった。
我々ふたり、集まるとすぐに何かをディスる。その時も嬉々として、ある共通の知人の悪口。「Aさんって色々服装頑張っておしゃれな雰囲気を出そうとしているけど、全然お洒落じゃないよね」「わかる、なんでだろ」
別にAさんに恨みもない。全く必要のないディスりだが、我々はこういった会話から常時インスピレーションを得ている。救えない。
しかし、この時は本当に僕の中で大きな気づきがあった。yuiちゃんがとんでもなく本質的かつ毒に満ちた名言を吐いたのだ。
あ、わかりました!
Aさんは “Doing オシャレ” だから。
本当におしゃれな人は “Being オシャレ” な人なわけで
僕はこれが、かなーり腹に落ちた。Aさんごめんなさい、そしてありがとう
確かにAさんは、オシャレを「している」= Doingなのだ。オシャレで「ある」つまりBeingとは明らかに何かが違う。そのしている感がぎこちない。
習慣とBeing
この違いは結構面白いと思う。
Atomic Habitという習慣に関する有名な本昔読んでいたとき、習慣とは「アイデンティティである」という節があった。
ギターの練習を習慣化したい時に 、ギターを毎日弾くという行為(Doing)を自分に言い聞かせているうちは、本物の習慣にならない。真の習慣とは「自分はギタリストである」というアイデンティティを獲得した時に生まれる――つまりBeingの問題だ1、という説明。
これは納得感があって、僕が日々の食が面倒で松屋で牛丼ばっかり食べていた時期に、当時の彼女(いまの妻だが)は、「やめろ」とは言わなかった。「あなたは毎日牛丼を食べるようなステージの人間じゃない」などと大袈裟な事を言ってきたのだが、実際にこれは効果があった。
暫く松屋通いの習慣がなくなったが、数年経ち最近はやっぱり松屋のカレーが旨い。
Doing vs. Being
Doingは意識して無理をしている状態、一方でBeingは自身に内面化をしているから、中で何度もリフレインして、無理せずに自然に身についている状態なのだろう。
意識下と自然体、人はその違いを敏感に感じ取る。自然体でオシャレ、Beingはなんかカッコいい。意識したオシャレ、Doingはちょいイマイチに映る。
以前に書いた“当たり前”を変えていけでも、DeNAで起業家マインド溢れる同期たちに囲まれたが為に、長井君たちは「起業家になった」のだろう。「起業する」と云っている人=Doing はちょっとダサい気がする、それ自体が目的になっている感じがある人も多い。「起業家になる」=Being の方がどこか自然で、寧ろそうせざるを得ない内面に突き動かされているように映る。
Doing LeaderよりもBeing Leaderが良いし、文章を書くよりも書き手でありたいし、人に優しくするよりも優しい人でありたい。そしてオシャレをするのではなく、オシャレでありたい。
模倣可能性
最近の人間はHuman Beingじゃなくて、“Human Doing”だなどという皮肉がある。とはいえDoingが重要じゃないわけでもない。
自然にBeingでオシャレな人も、無理してDoingオシャレだった時期があるはずなわけで。最初からBeingになるというのはかなり難しい。
Doingの特徴は「模倣可能性」だと思う。
頑張ってオシャレをしている人は「何故そのコーディネートか」をかなり明確に説明できる。というか、嬉々として解説してくれるだろう。このシャツはいまトレンドの水色、そこに敢えての外しでブラウンの小物を合わせて云々――おっと、アタマの中にyuiちゃんが出てきて、不要に毒舌になってしまった。
まあ、Doingというのは本人も意図してやっている分、同じものを人に渡せる構造になっている。ダサさはそこから来ているとも言えるが、その代わりに多くの人が、真似できるものになっている。スケーラビリティがあるのだ。
それに比べると、Beingというのは心もとない。真におしゃれな人に限って「どこか雰囲気がいい」「オーラがある」「あのヒトにファッションが合ってる」など、完全に言語化できず真似しづらい要素が含まれる。だからカッコいいのかもしれないが、どうやってそうなれば良いのかについて、Doingとは違ってヒントが少ない。
お土産を手渡せない
であるからして、Doing―つまり、「どうすればいいか」を人に渡せる形にするというのは、大事なスキルだということはわかる。
これは登壇者あるあるだが、講演やパネルディスカッションのオファーを受ける時、コンテンツの内容について、大抵の場合イベント側から「観客が明日から実践できる学びをひとつ持ち帰ってもらいたい」という要望が出る。
僕はこれが苦手で、データ分析についてディスカッションしても、結論は「人と課題に寄り添えるようになろう」のように、Being側に倒れてしまう。多分主催者は、コレコレのツールを使おう、とか、xxの分析から始めてみよう、とか、もうちょっとDoingっぽいものを渡すことを期待しているだろう。
職業と性格の問題があると思う。
データアナリストは物事を診断し、抽象的な問題点とゴールを提示するほうがレバレッジが効く仕事である。だから、あまり具体的すぎるDoingの行動コードを渡すことに関心が薄いし、むしろ警戒感がある。これは僕自身の性格ともアラインしていて、Doingは単純化された本質でない解決策のように感じてしまう。後、自分がDoingを指示されるのが大嫌いだから、無意識に周りにそうするのを避けているのだろう。
Being > Doing だという強い公式が、僕の中で勝手に根付いている。
でも、誰もDay1 から自分をギタリストだとは思えない。日々のギターに触れる回数を増やし、練習を繰り返す中でそのアイデンティティは育まれる。
BeingはDoingの反復の延長にあるはずで、大抵の人はBeingへの漠然とした憧れは持ちつつも、明日やるべき具体的なDoingを求めている。そんな聴衆の気持ちをわかっているから、イベント側はDoingを要求しているのだ。
そこに寄り添えないのが僕の弱点でもある。Doingを渡すことへの異常な抵抗心。
それは文章にも顕れる
以前、AIに僕の文章をいくつか読ませて、何人かの物書きと比較をしてもらった2。
今回の話で言えば、深津さんとの比較がわかりやすくて、彼はDoingを渡せる、モラルコードの設計者としての振る舞いが上手なのに対して、僕は構造や背景説明が強いという診断だった。
確かに僕のこれと深津氏のこれを比べると、僕もDoingで書いているようで、深津さんの「こうすべし」と比べると明瞭さはだいぶ低い。深津さんはデザイナー出身だから、人々がどう振る舞うべきかというのを程よい抽象度でコードにまで落とし込み力は強いのだろう。というかデザイナーでもトップクラスの強度なのだろう。
僕は僕で自分の文章には自信がある。でも、やはり「Doing」をちゃんと渡せる記事のほうが求めている人も多いし、影響力は大きい。僕のnoteは良いもので~1,500likesくらいだが、深津氏が3,000~likesレベルのヒットを連発できるのは、そのDoingの強度の違いにもあるだろう3。
まあでも、
それもわかった上でDoingを渡すことを積極的にしたいかは、まだ自分の中でちゃんと整理がされきってはいないのではあるが。
醸せカルチャー
ちょっと前に醸せカルチャーという記事を割と適当に書き、しかしてそれなりに評判が良いのではあるが、これは珍しく「醸せ」などとDoingなタイトルを付けたのが良かったのか?などと呑気に思っていた。
だが、この前miyattiと話していて、「醸せカルチャー」は単にDo型の動詞を使っているだけで、内容は寧ろBeingの話をしているということに気付かされた。確かに考えてみればそうだ。この記事を読んでも、明日から取れる具体的なアクションは明確ではない。
こう使えばきっと面白い、を自分なりにやってみる。
文章を書き、人と関係し合うことで、満足感を得る。その雰囲気を、文化を醸し出して、この場所に充満させる。理想や文句を言葉で語るのではなく、行動で体現することが何より重要だ。
―― 醸せカルチャー(hikaru)
僕は根っこからbeing向きのパーソンなのかもしれない....そうなると、Doingを渡せる人ほどの影響力を持つのは難しいのかなあなどと、少し悩むこともある。
だとしても、自分は自分でしかいられない。結局、自分らしく、beingであることを見せていくしかないって。それしか出来ないからね。
そんなBeingが、周りの人に良い影響をたまたま与えることもあるだろう。そんなことになればいいなと、思っている、正直。でも、そのたまたまは多くの場合知り得ない、それで構わない――それに気づけたのが、宇宙の中で良いことをと記事だった。あー何か、書いていて色々なことに気づき、知らぬ間に繋がってきた。
いいね。
何故かその時は他に國分功一郎、宇野常寛が比較対象だったのだが、簡易的な理解として、それらの各人が「半沢直樹」を描くとこういった違いが出るという。
・国分:半沢・大和田などの登場人物がなぜこの人間になったかをなぞる
・樫田:大和田が何故そう振る舞わざるを得ないか、銀行組織の構造を描写する
・深津:半沢が確実に勝つための盤面と動き方の手筈を説明する
・宇野:大和田が勝ってしまう世界の危険性を煽動する
僕のnoteは行っても1,000-2,000likesくらいだが、深津氏は3,000-5,000likesのヒットを多く飛ばせる。あと、尤も深津氏はBeingも相応に強いわけだが。


